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【小説】露草と淡色 最終話


昂平が亡くなってから一年が過ぎた。

あれから佳乃は月命日に海に行くようにしていた。その日が平日なら休暇をとるようにした。
休暇の手続きは随分流暢になったものだ。

月命日の日だけ、佳乃は昂平のことを考えた。
それが自分が背負える罪悪感の範囲だった。

以前と何も変わりなく同じように生活しているつもりだったが、佳乃の見える世界は淡く現実感がなかった。
感情が乏しくなったとも言われる。以前から冷静な方ではあったが、その類じゃないらしい。

佳乃には自覚がなかった。
こどもたちや夫も佳乃の変化に気づいているようで、心配してくれている。

夫は佳乃を気遣い、早く仕事を終わらせ帰宅し、佳乃の負担を減らそうとしてくれている。
夫は佳乃に話してほしそうだったが、昂平の死については何も話していない。


「…失礼ですが、有澤さんですか?」

突然呼ばれ驚く。
振り向くと男性が立っており、すぐに昂平の父親だとわかった。
昂平と似た柔らかな雰囲気だった。
葬儀で会ったが話すのは初めてだった。

「長峰さんから聞きました。あなたが毎月ここへ来ていること。」

「…そうですか。」

「昂平のためにありがとう。」

佳乃はそのように言われ違和感を感じた。

「…わたしは自分のために来ているだけです。」

発してから随分と冷たい響きに感じ申し訳なくなった。
しかし、昂平の父親は気にせず、昂平のように優しく微笑んだ。

「実は…昂平がいなくなって、あなたにメールをしたのはわたしです。」

父親の告白に佳乃は驚いたが、話の続きを待った。

「昂平からも長峰さんからもあなたの話は聞いたことがありました。
昂平は散歩に行く時、あなたとよく過ごしていたこと。
長峰さんとあなたは旧くからの友人であること。
置きっぱなしだった昂平の携帯からわたしが連絡をしました。
あなたなら昂平を見つけられるかもしれない。
家庭をお持ちだと聞いていたので、あなたを巻き込みたくはありませんでしたが、昂平を見つけるために手段を選べなかった。すみませんでした。」

「…わたしは結局何も出来ませんでした。すみません。…これを読んでみてください。」

父親の話を聞いた佳乃は、迷いながらも昂平の手紙を父親に見せた。
父親は驚き、手紙を受け取った。

「これは、この海で見つけたものです。今まで黙っていてすみません。」

父親は手紙を読んだ。ゆっくりと時間をかけて。

「…手紙を見つけてくれて、見せてくれてありがとう。あなたにしか見つけられなかったでしょう。」

父親はまた優しい笑顔を浮かべた。
佳乃は何て言ったらよいかわからなかった。

「あなた宛の手紙ですが、わたしが預かっててもよろしいでしょうか?
この手紙を持っていると、あなたはきっと昂平に縛られてしまう。

…愛する人を亡くす悲しみを私は何度も経験しました。
でも、わたしはちゃんと生きようと思っています。
あなたも自分の人生を生きて、大切な人たちにきちんと目を向けてください。」

「…はい」

佳乃は今までの自分を振り返る。
人と深く関係を築こうとしなかった自分、
人の領域に踏み込まなかった自分。
殻に籠った自分に昂平は感謝の気持ちを抱いてくれていた。
でも結局は彼のことを救えなかった。

佳乃は泣いた。
昂平が亡くなって、初めて涙が出た。
やっと彼の死を認められた気がした。

優しくてあたたかな潮風がふく。
それはまるで佳乃のことを包み込んでいるようだった。

家までの帰り道、佳乃は運転しながら考える。

今まで通り淡々としていれば、
心から傷つくことはないのかもしれない。

心から愛する人を失ったとき、自分は正気でいられるだろうか。
佳乃よりもきっと深く昂平のことを思ってきた恵美と父親。
二人は毅然としているようにすら見えた。
しかしそれはきっと表面的なもので、彼女たちの心の奥深くには入ることは出来ない。

人はみんなそれぞれ何かを抱えている。
そしてそれは見えないものばかり。

「ただいま。」
「おかえり。」

返事があったので驚く。
こどもたちの帰宅前に帰るようにしていた佳乃だったが、まさか夫がいるとは思わなかった。

「今日は佳乃の好きなものを作ろうと思って。驚かそうと思ったのに、まだ出来てないや。」

夫は照れ隠しするように笑った。

当たり前の日々を過ごす中で、自分は理想より遠い位置にいると思っていたが、そんなことはなかった。

「ありがとう。…ねぇ、少し話せる?」

佳乃が切り出すと、夫は頷いた。
もうなんとなくわかっているようだった。

夫は紅茶と珈琲を淹れてテーブルに並べた。

「…聞いてほしいことがあるの。」


今を見つめて生きていく。
目の前の人を心から愛したい、逃げたくない。
淡い世界が明瞭になっていく。

清水佳乃は口を開いた。



おわり



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