1年の心情変化記録。転職とパートナーとnoteについて。

久しぶりに、自分用の記録noteを書く。

未来の自分へ。
2020年8月1日に私はこんなことを考えていたようです。
(毎度散文でごめんよ)


転職してからの心情記録

転職して1年が経った。


新しい環境に馴染むための努力は必要だからしっかりやっていこう。
そう息巻いて突入したけれど、結果的には見事に肩透かしを食らった私。

ありがたいことに、それはとても良い意味の裏切り。

「あ、帰ってきたかも。」

楽しくて、楽しいだけでも許されない、私の大好きな空気を感じた。



社会人になって、OLにならねばと自分にかけてしまった呪いを一つ一つ解いていく作業をして1年、初めての転職ではもう同じようになりたくなかった。

できることなら等身大の自分で、格好付けたがる性分を知っているからこそ、格好悪い面もきちんと披露したかった。



振り返れば、いつだって私の考える「こうあらねば」は自分を苦しめている。
「こうありたい」ではなく「こうあらねば」は自分の意思ではないのだから無理もない。
私は随分不器用な人間だ。


上部の取り繕いが上手い私を、いつだって担任の先生は「良い子、美術系のセンスがなんちゃら」と適当な評価をしてくれた。
「そうみせてるもの、適切に評価どうもありがとう。」そう思っていた。

唯一中学1年の担任の先生だけは三者面談で「あなたは不器用だからね」と指摘してくれた。
三者面談の帰りに母と「良い先生が担任になってくれたね」と話した。

彼女は今何をしているだろうか。
15年前の話をふと思い出す。

15年前の私は、28歳どころか20歳の自分さえ想像できていなかったな。
不思議とね、こんな感じだよ。



自分が思っていたよりも早く空気に馴染んで過ごしてみれば、あっという間だったような、そうでなかったような1年間。

ミックスジュースのように、いろんな出来事がギュッと詰まっていて、時間軸だけが曖昧になる。

忙しさにかまけて後回しにしていたものごとに首を絞められているのも事実。
仄暗さが存在感を増して、今にも「つかまえた」と背後から手が伸びてきそうで怖い。(いや、もうつかまれているのかもしれない)



勤め先には推しがたくさんいる。
彼らのためにエネルギーを使いたいと日々思い過ごす。

気軽に話ができるし、取り繕う必要がない。
でも、プライベートのことはあまり知らない。

これが自分にとっての気持ちの良い距離感なんだろうか。
久しぶりに朝焼けをみながら、重い頭で考えてしまった。



深い部分には美味しさと苦しさが同居していて、時に苦しさが勝る。
それは、避けたい事項でもあり、体験しないとわからないものでもある。

私はあとどのくらい、それぞれとどんな関係で過ごせるのかしら。
転職してから常々考えている。

もちろん隠すことなく、それは伝えながら。
言葉にすることとは別に、自己の行動を振り返りみれば良くも悪くも正直だと思う。(本当は正直より、もう少し柔らかさをもって素直と表現できる行動を取りたいんだけれど。)


パートナーシップを結びたい人がたくさんいる。
パートナーシップを強化したい人もたくさんいる。


私はどんな選択をして行動していく?



パートナーについて

それと、これは学生の頃からのテーマだけれど、シンプルにパートナーほしい。
時によって彼氏だったり、恋人だったり呼称や人を変えながら私の中に存在していたけれど、どうも難しい。(そもそもの経験値が少なかったり、背伸びしていた結果の当たり前の空振りが多すぎる。空虚の経験たちよ)

デートしたりするのも大好きだけれど、シンプルに手を組んで補い合うパートナーがほしいんだよな。って思う。
気持ちよく仕事する感覚と似ているんだけど、自分の中でうまく整理がついていない。
推しあう関係の先にいてほしいけど、恋愛的な要素が入ると勝手が変わってくる気がして困る。

あれこれ考えても結果カラダで学習するしかないのもわかっているので、自分で動くしか道はないんだよな。



noteに対する心情の変化

大前提として、noteは末長く推す。
これに変化はない。(むしろ中の人を推す気持ちは強まる一方だ)


変化しているのは、自分のnoteについて。

自分の推しているnoteがどんどん大きくなるにつれ、自分の中でも楽しみ方に変化がある。

まず自分のタイムラインを追わなくなった。
本当ならば、面白そうな人をフォローしているから、面白いnoteに出会えるんだろう。

でも、気軽さを感じなくなった。
少しばかり「読むぞ」と気合いを入れないとならない。
それならば、Twitterで流れてきたnoteをひょいと読むほうが今の私には合っている。

改めて考えると、誰かに読んでもらうことを想定していて、それに耐えうるnoteが爆発的に増えたことで、他人からはどうでも良い日常記録(でも覗いていた)noteを読むエネルギーは残らなくなったのかもしれない。


これは自分にも言えることで、個人noteを書く中でも、「お披露目用」と「自分用」とがあると思っている。

カレンダーだったり、レポート、読書記録は自分以外の誰かが見るであろうと想定して書いている。

しかし自分の心情記録は未来の自分のために書く。
実際に、過去の私には「良い仕事をしてくれているぜ」と言いたい。


noteで書くことをはじめた2年前なら、お題をみて誰に対するでもなく、心情をガリガリと躊躇なく書いていた。
今は画面を見つめるだけで、タイプする気が起こらない。

読書と同じで、気持ちのムラだろうか。
(超読む期と、全く読む気にならない期がある)


ブランディング視点?で考えると、きっとアカウントをきっちり分けたりしてコントロールしていくのが上手いんだろうけれど、続けることを意識すると、その選択はしたくない。(その考えがとても面倒なのかもしれない)


SNS疲れと似た現象がすぐそばに潜んでいるようで、少し居心地が悪い。
気のせいだと思いたいし、気にしないのが一番だろうけれど。


私のnoteは、推しへのラブレターと、自分の記録。
これに変わりはないはずなのに。


どうも、しっくりこなくなってきている。



って書いてみたけど、気のせいかもって気がしてきた。

自分の幸せは自分で。
落ち着いていこう。


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