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【エッセイ】嘘泣き出来ますか?

西原理恵子さんの漫画『毎日かあさん』の一巻か二巻に「嘘泣きは女子の必須単位」(*引用ではありません)という回がありました。
私、その必須単位を落としているのです。

嘘泣きしよう、という発想がそもそも無い。涙が出た時が泣いた時である。
感情が高ぶる時は涙が出ます。悲しい、悔しい、寂しい、惨め、不安、不満、焦燥、憤りなどの、後ろ向きな方の奴がです。
神経が刺激によって作用される時も出ます。大音量で音楽聞かされたり、感極まったような大声聞かされたりとか。

以前、大学で発達心理を研究していた先生と話したことがある。
「人は、自分の思い通りにいかない時に、例えば嘘泣きとかをして相手の気持ちを変えようとする」、と言っていた。
「そんなことで人の気持ちって変わるんですか?」と、私は衝撃を受けた。

嘘泣きで人の気持ちが変わる? 確かにそれにも驚いた。だが、同時に「自分の嘘泣きで相手の気持ちが変えられる」という神経回路があることにも驚いた。

私の場合、泣くことは個人的なことだという感じだったのだろう。悲しい、悔しい、寂しい、惨め、不安、不満、焦燥、憤りなどは、自分の中で燻ぶり、外の人に出て行くものではないのだ。
神経作用で出る涙も、それは感情が揺さぶられてないから、というか涙が出ているという客観的な状況との対比によって、かえって全く感情が動かざること何とかの如しということが分かっちゃうので、自分が外からの刺激によって変わる、という感じが無かった。
そして私は、「相手の情緒」より「相互が置かれている文脈」を大事にしてしまうからだ。相手が泣いていようが、今までの相互のやり取りを読解して、自分に否が無ければ気持ちが変わらない。それによって相手を説き伏せようとも思わないので、コミュニケーションが凍結する。
また、人には人が変えられない、みたいな定説を信じていたのもある。

「人は、自分の思い通りにいかない時に、例えば嘘泣きとかをして相手の気持ちを変えようとする」というのが本当だとして、「それが情緒もきちんと発達した健康的とされる人間の絆なのかぁぁ………」と、ある意味ではカンドーするかもしれない。だって、自分が泣けば相手が折れるっていう信頼関係のようなもんなのでは? と思ったんですね、きっと。

嘘泣き出来るってイメージが良くないかもしれないけど、相手の情緒が分かるってことだし、自分に出来ないことが出来る人たちなのかもしれないなぁ、とジト目で見てしまう。嘘泣きで折れちゃう人だって、それだけ泣かせたくなかったほどの相手がいたってことで、思いやりがあるとらえれば健康的な人かもしれない(結婚詐欺やDVに合ったりとか、生活と人体と心が被害を受けた場合は別です。西原理恵子さんの本を読みましょう)。

嘘泣き、という人の営みを遥か下から見上げている感じである。野生のリスが高い高い崖の上に生えている胡桃の木を見上げて往生しているように。自分にそういうコミュニケーションが出来、信頼関係が築けるかどうかはわからないし、努めて出来るようになったほうが良いかと言えば、そうでもない。

嘘泣きが健康的な人間のコミュニケーションの仕様の一つなら、人間という種にそういった仕様が行き渡っていることが不思議。
そんなふうに文化や礼儀作法とは違う、むしろそのような国や地域によって違うものよりも広く行き渡っている。
そこまで言うと、嘘泣きとか出来てないと変なのか、苦労するのか、と不安になる。

もーちょっと、嘘泣き出来ない人のコミュニケーション文化に、積極的に歩み寄ってみてくんないでしょうか?
私みたいに、「嘘泣き」を見上げるような壮観な瞬間が来るかもしれませんよ?

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