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バイバイ、ブルーバード

父がひとりで死んでいた』という書籍を発売してから多くの方にフォロー、コメント、おたよりをいただきました。心より感謝申し上げます。

無人の実家に置いていた母の車を手放した。

日本中の多くの場所がそうであるように、私の故郷は車がなくては生活できない。実家から目的地までをピンポイントで結んでいる公共交通機関はなく、母の入っている高齢者施設にバスで行こうとすると一度街の中心部に行って乗り換えなくてはならない。車だと10分もかからず行けていた場所に、待ち時間も含めるとバスで2時間かかってしまう。

地方都市とはそういうところだ。

昨年は月に1度東京から飛行機に乗って実家に行き、1週間滞在するという生活を送った。父の死後の手続きや遺品整理、母の施設入所の準備やその後の面会、ケアマネージャーさんとの打ち合わせ、家屋のメンテナンス、庭の草むしりなどありとあらゆることをする必要があった。東京にいても郵便で書類はひっきりなしに届き、目を通して判断して判を押して送り、電話を受けた。

父が死に、母が施設に入り、無人の実家を私が維持していくという状況を整えるために費やした1年間だった。あっという間に過ぎた。

1周忌に当たる日、初めて遺されていた写真のアルバムを見ることができた。父の死を中心に据えていた私の視点が急にひらけ、「彼は死んだのではなく、『生きてきた』のだ」と気づき、肩が軽くなった。ずっと下を向いていた目がふと故郷のやわらかい空を見た。彼らには彼らの人生があったのだ。私も自分の人生を生きていかなければと思った。

遺品の整理もやめた。いずれこの家を取り壊すときに、まとめて処分しようと考えた。今を生きていくためには、思い出に浸っている時間はない。父の部屋をそっと出た。

こころとからだに負担の大きい帰省の回数を減らそうと思った。その時に気にかかったのが、母の車のことだ。持っておくだけで車両税と任意保険を支払わなくてはならない。おまけに今年は車検もある。

車がなければ帰省したとき母の施設に行くにも不便だ。悲しさを晴らすために近隣を流すこともできない。阿蘇や天草といった、故郷が誇る素晴らしい場所に行くこともできない。レンタカーを借りればいい、という問題ではない。元気な頃の母が自らハンドルを握り、朝に夕に運転していた車であることが私にとっては大切だった。

けれど、手放すことを決めた。元気な頃の母はもう戻ってこない。このところ嚥下が難しくなり、調子の良いときと悪いときの差が以前にも増してひらいてきた母は、そう遠くない将来、この不便な世の中から解放されるだろう。

元気な母という執着を手放さなければと思った。その象徴が、母の愛した車なのだ。

学もキャリアもない母は、ごく若い頃、自動車運転免許を頼りに自分の道をひらき、その過程で父と知り合った。さまざまな車種を乗り継いできた彼女が最後に乗っていたのは、型落ちを中古で譲ってもらったブルーバードだった。

バイバイ、ブルーバード。

これは母へのさよならの準備でもあり、私のこころの解放でもある。

タイトルイラスト:加藤龍勇(スタジオぶらぶら


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