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After, After Night


まるでお菓子の家みたいな所だったな、と思う。ちょっと手を伸ばせば、甘いお菓子がすぐ手に入る、魔法使いが住むおうち。望めばなんでも手に入れられて、でも、いちばん欲しいものはそこには無くて。

そのおうちは、主である魔法使いがいつも不在だった。

聞けば誰もが知っている外資系の超有名ホテル。その最上階のプライベートルームを、かつて恋人だった祐介は住まいにしていた。私が彼と住んでいた、まるで優しい牢獄のようなそこに彼はいまも一人でいるのだろうか。

***

いま私の目の前に広がっているのは、朝の光が射し込み始めた薄明の海だ。

どこまでも広がっていきそうな藍色の空と海の狭間から、オレンジ色の朝日がゆっくりと顔を覗かせ始めている。私は目を細めて水平線の向こうに小さく見える光に目をこらす。波間に揺れていまにも消えてしまいそうな小さな光のその中に、夫の雅也がいる。

光の正体は、沖合で漁をする漁船が放つ照明光だ。

きっと今頃雅也は必死で網を巻き上げているのだろう。大漁だと良いけれど、こればかりはどうにも分からない。「海の神様の機嫌しだいかな」そう言って日に焼けた浅黒い顔で笑う雅也の顔がまぶたの裏に浮かんだ。

***

都内のおしゃれなカフェで開かれた合コンで、自分の職業を「自営業」と告げるだけだった祐介は、「医者」や「弁護士」、「外資系コンサル」を名乗る人たちの影に積極的に隠れるようなそぶりを見せていた。

その場に上手くなじめずに居心地が悪そうに浮かべた笑みの裏側に、寂寥の気配を感じて心惹かれている私がいた。私も人数合わせに急に呼ばれたその会に、居心地の悪い思いをしていたからだろうか。

彼の言う「自営業」が「立ち上げてすぐに有名投資家から数億円を調達した新進気鋭のベンチャー企業」を指していることを知ったのは、付き合いだしてからのことだった。急激に規模を拡大していくまさにその最中だったから、CEOの祐介は常に何かに追われるように仕事をこなしていて、せっかくの豪華な部屋に帰れないこともよくあった。それでもせめて彼に「おかえり」を言ってあげたくて、部屋で彼の帰りを待つ日々を私は選んでいた。

投資家や企業家仲間との付き合いもあるのだろう。お酒の臭いを全身から漂わせて帰ってくることもしょっちゅうだった。そんなときに限って、彼は私に甘えてきて、アルコール臭のする呼気と共に愛の言葉を囁くのだった。私が出来るのはせめてそれくらいだから、彼の求めるままに、彼の要求に応えていた。
ときどき、ベッドの中で彼に問いかけた。

「ねえ、わたしのこと、愛してる?」
「もちろんだよ、君を愛している」

それは、嘘。それが嘘だということすら、彼は自分で分かっていなかった。

***

雅也と出会った所は、祐介が海外へ長期出張の間に私へのお詫びとして手配してくれた旅行で訪れた、島の宿だった。

本格的な海釣り体験ができるのが売りのその宿で、漁師見習いとして働いていた彼は、初めての体験で戸惑う私に丁寧に釣りを教えてくれた。

揺れる船の上で竿をまっすぐ持つことすらままならない私に、根気よく道具の扱い方を教えてくれる。嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しそうに教えてくれる彼のおかげで、ようやく海に投げ入れることのできた釣り針に、すぐに魚の手応えが訪れた。どうしてよいか分からずにおろおろする私を手助けしながら、彼は私にこう言った。

「初めてでこんなにすぐに魚がかかるのは凄いですよ。海に愛されてますね」

彼にしてみればなにげなく放った言葉だったのだろう。けれど彼の言葉を聞いた瞬間、私はぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。さっきまでの自信に満ちた様子はどこへやら、いきなり泣き出した私の前で、こんどは彼がおろおろとする番だった。

「ええっと、大丈夫ですか、どこか痛いですか?」

心底心配そうにこちらを覗き込んでくる彼に、どうにか小さく「大丈夫です」と言葉を返す。「愛されている」という言葉がどうしようもなく心臓に染みて、涙が自然と溢れ出していた。それは「愛されていなかった」と感じていたからだし、「それでも愛していたのだ」と気がついたからだった。

だから、たぶんこれは愛なんだと思う。

***

彼の前からいなくなること。
祐介のために私ができることは、いつの間にかそれしか残されていなかった。いつからこうなっていたのだろう。どこでこうなってしまったのだろう。もしかしたら初めからこういう運命だったのかもしれないし、ついさっきそう決まってしまったのかもしれない。

私は枕を上にしたベッドの左側、いつも私が眠る場所に、大きな熊のぬいぐるみをそっと置いた。私がいないこの空間で、彼が少しでも寂しくないといいけれど。そう思う私の胸は、いつの頃からか震えなくなっていた。

もう、いいの。もう、許してあげる。

笑顔で嘘がつけてしまう彼を、今はもう、冷たい人だとは思えなくなった。そうしないと、うまく生きられなかったということが、今なら理解できる気がする。だからあの人が自分の気持ちに正直に、嘘をつかなくても生きていけるようにと、私は願っている。

エレベータを降りて、豪華なエントランスから夜へと踏み出す。まるで波間でバランスを取るように、両手を大きく左右に広げて、私は街灯の灯る夜の道を歩く。

***

日も昇らないうちから家を出て、揺れる漁船に乗り込み、沖を目指す。高巻く波は容赦なく船を揺らし、少しでも気を抜けば冷たい海へと放り出されてしまう。

そこには人間の思惑なんて入る余地がない。
海に向かって嘘はつけない。
だから、海で暮らす人は正直にならざるを得ない。

私、嘘をつかないひとを選んだよ。

夜の後には朝が来る。
それは自然の摂理であって、この世の誰にも抗えないけれど、せめてあの夜の時間だけは大切なものとして彼の中にも刻まれていますように。

そんな儚い祈りを捧げながら、私は雅也を待つ岬の上で、太陽が昇り始め、明るさを増していく水平線の向こうをじっと静かに見つめていた。

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