世の中と解釈違い


世の中と解釈違いだから内面に引きこもるのが幸福。
これが近年の私の生活だろうなぁと思った。


レジ袋が有料になったりコロナ禍でマスクをしなければならなくなったりして、詳細は長くなるので割愛するがトラウマと潔癖と感覚過敏の傾向があるので普通に生活することが困難を伴うようになった。
かといって私は社会カテゴリー上「普通」にあるし、一人暮らしなので外に出て自分で諸々をしなければならない。
生活を最低限に縮小して、本来はやるべきこと(身体のメンテナンスとか)を放棄した。

多くの人が一部制約はあるものの以前と同じ生活が出来ているのだろう。
週に何度かスーパーに行って食品を買うとか。
感染症が落ち着いてきたから散歩に行くとかマスクをして外出するとか。
私は出来ないから止めざるを得なかった。

マスクをするようになって煙草を吸い始めた。それまでは吸っていなかった。
けれどマスクを外す理由になるし、外に出る理由になったので前より楽になった。
健康のための行為で健康を害している。



最近、多くのことが動画でなされるようになった。
これにも困っている。
私は聴覚の認識力が弱い。集中していないと意味を聞き取れない。
たとえばアニメや映画の鑑賞のように動画を見ている時間を楽しむのであれば良いが、告知やニュースやノウハウなど、情報を得たいだけの時に動画は見る気にならない。
娯楽的な動画も苦手だ。気になる配信者が居ても、雑談放送や実況放送がメインだととても聞く気にはなれない。
集中しないと聞き取れないし、そもそも動画は遅すぎる。
私が「なるほど」と思う頃に画面の中ではまだ「どういうこと?」をやっている。

意味を理解するなら倍速ぐらいがちょうどいい。一方で、倍速をかけると言葉がより聞き取れなくなる。
字幕があればいいが、それはもう動画ではなく文字情報でいい。


しかしどうも、世の中はそういったコンテンツを楽しんでいるようである。
そして文章を読めない人も相応に多いようである。
彼らにとっては文章よりも動画が分かりやすいのだ。
更に技術の進歩で動画の視聴と発信は手軽になっている。

これはもう、世の中の「平均的な丁度いい」が私向けではないのだ。
そしてそれは私にとって丁度いいどころか「困難」に分類される。


発達障害その他周辺の特性は一言で言えば世の中への適応の悪さと言える。
発達障害の人間が増えたのではない。社会が求める「適応の範囲」が狭まったのだ。
単純労働は消え、コミュニケーションが必須になり、高度な頭脳労働を求められる。

別に障害に限ったことではない。
テキストコミュニケーションが苦手な人はテレワークに悩み、対面コミュニケーションが苦手な人はそれを歓迎した。
もし「今後出勤せず、定年までテレワークを続けてください」と言われたら前者にある人はひどく働きにくいと感じるだろう。
それと同じことが時代単位で起こっているだけだ。


私はこの五年あたりの社会変化に適応することが出来ていない。
この先の方向性がこのままなら、ドロップしていくしかない。
いや、したいと思っている。

社会適応、つまり働いて食っていく範囲はどうにか出来ているし(食事の維持は怪しいが)、休日に外に出なくても苦ではない(運動不足になっているが)。
ゆるやかに健康寿命を削りながら、趣味の小説を書いて自分の内面と戯れるのは楽しい。

オタクは時々「解釈違い」という言葉を使う。
推しや周辺の物事に対して「思ってたのと違って、私は認められない」という怨嗟だか悲しみだかを込めた言葉だ。
認められないから攻撃するという厄介なオタクもいるが、私は「認められないことを認めた上で、私向けではないと受け入れて離れよう」のタイプだ。

社会から離れる方法は並大抵ではないので、まぁ距離を置くぐらいで、今後しばらくやっていきたい。

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