目的のない体験から生まれる目的

 目的は盲信されている。
 狙いをつけてその通りに実行できることこそ素晴らしい、と。裏返せば、それは目的さえ実行できれば、他はどうでもよくなってしまい、見落とされてしまうのではないか?

 なにかを学ぶ際に、大抵目的が設定されている。すると、学ぶ内容や情報は限定される。なぜなら、その方が楽だからだ。
 足し算を学ぶ時に歴史の話をしていたら、ややこしくなるだろう。だから、教える人間からしたら、情報を限定する方向へと走るのもわかる。けれど、それは学ぼうとする力が育つのを邪魔してしまう。

 体験において限定的な目的をあえて据えない。その先に、学ぶ力が生まれてくるのではないか?
 たとえば子どもが1人で買い物に出かけたとする。
 知らない野菜の名前を覚えてくるかもしれない。新鮮な野菜の見分け方を学ぶかもしれない。会計で計算の仕方を学ぶかもしれない。あるいは、知らない大人(店員)とのコミュニケーションを学ぶかもしれない。
「買い物」というざっくりとした体験の中で、なにが磨かれるかはわからない。けれど、確かにその行為の中で、育っている力があるのだ。そして、AくんとBくんでは同じ場所に同じものを買いに行っても、得てくるものは異なる。そこに個性が生まれ、多様性が生まれてくる。

 だから、目的は決めず、とにかく試行錯誤して、それを振り返っていく。その行為の繰り返しの先に、他者から設定されるのではなく、自分の中から湧き上がってくる目的が出てくるのではないか。
 それが「やりたいこと」と世間で呼ばれるものの正体なのかもしれない。

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