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本心を打ち明けるに足る人

 子どもと関わっていると、多少年齢は前後するけれど「わからない」と素直に言わなくなる時期がある。
 ある程度会話が成立するようになると、家庭や学校・習い事などで、大人は伝えればわかるだろうと思うようになるのかもしれない。だから、その願望に子どもが反した時に「なんでわからないんだ」と口にするようになる。

 そうして「わからない」を言わなくなる代わりに、黙り込む。怒られるくらいなら、なにも言わないと反抗の意志表明だと思っている。

 自分がその「大人」から外れた存在であると断言はできない。当事者でないとその感覚はわからないからだ。
 ただ、「わからない」をなるべく受け止めるように心がけているつもりだ。その先の「どうしたらわかるか?」を考える前に「わからないこと自体は悪くない」と本人が感じられるようにする。
 そういう関わりが大事だと思っている。

 それは別に子どもに限った話ではなくて、あらゆる人に対してそうだ。

 人の気持ちはないがしろにされている。他者から見れば、「私」の気持ちより優先すべきことが多いからだ。そうして本心は言えなくなる。

「好き」も「嫌い」も、「悲しい」も「嬉しい」も、「やりたい」も「やりたくない」も、言いづらくなってしまうのは、その言葉を聞いた相手がちゃんと受け止めてくれないのではないかと不安になるからだ。

「本当はやりたくない」のに仕事だからやれと言われる。
「好き」と言ったら、今の関係は崩れてしまう。
「悲しい」と伝えたら、励まされてしまう。

 最終的には気持ちを感じている当事者の問題だけれど、僕は「この人なら本心を受け止めてくれそう」と思ってもらえるような人間でありたい。
 おそらく生きているうちに、自分は十分なレベルに至ったと感じることはないだろう。それでも、1mmでも近づけるように試行錯誤を続ける。

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