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ジェネレーションギャップは埋められない

 年齢が明らかに違う人と会話している時に感じる断絶感。ジェネレーションギャップは明らかに存在していて、対話するのを阻む瞬間がある。
 ただ、年齢(世代)が違うからわからないかといえば、そうでもない。中身は微妙に違えども、友達と遊んだ楽しさや、だれかにフラれた悲しみは理解できるし、寄り添えるだろう。

 ジェネレーションギャップの本質とは「身に沁みてわかる」体験ができないことではないだろうか?

 たとえば、僕の親世代はまだ日本がイケイケだった時代を体験している人達で、放っておいても良くなるので、組織に対する謎の信頼感を持っている。就活で学生が「みんなが名を知る大企業がいいんじゃない?」と言われるのは良い例だろう。上場企業が平気で倒産する現状を頭では理解できても、身体の深い部分ではわかっていないのだ。

 逆に若い世代だって、尾崎豊がなぜ熱狂的に支持されたのかは、本当の意味ではわからないのだ。曲の良さはわかったとしても、今より形式的で保守的な青春時代を生きていないから、どこかで共感できない。

 タイムスリップはできない以上、どうあってもわかりあえない。そこにある肌感覚が伴わないのだから、仕方ない。絹を触ったことのない人に、「シルクのような手触り」は通じない。

 よって、2人の間に横たわる溝は決して埋められない。
 ジェネレーションギャップが明らかになった時にするのは、どちらが正しいかの選択ではない。両者が意見を話し、聞く対話なのだ。そして、第3の選択を導き出す。

 断絶がある以上、崖の両側から言い合いをしたって進まない。崖に沿って歩いて言って、どこかでつながる場所を見つけて初めて2人は出会えるのだ。

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