見出し画像

ひとごろしの私にしんでほしい

何ということはない、過去の恨み辛みと希死念慮の始まりの話。そろそろ生きていきたいので、捨てたい自分を投棄していきます。


8月の夜に、風呂に入った後、脱衣室で倒れ込んで動けなくなったことがあった。

頭が割れるように痛い、という表現がある。その通りで、血管でも切れたんじゃないのかと思うほどに急速に広がる熱さと、殺してやると言わんばかりに脳を揺さぶる痛みに、思考や五感を全て奪われて。あまりの痛みに暴れることすら出来ず、ただ床に転がって、中途半端に開いた浴室に続くドアを、歪んだ視界で捉えていた覚えがある。延々と続く苦しみに、だめだ、死ぬ。と心底思った時、ふと力が抜けて。直後に、鏡を叩き割ったような感覚があって、痛みが消えた。体の重怠さはそのままでしたが。痛みに疲れきっていた体を起こし、動けるようになるまで1時間半ほどかかって。

何とか立ち上がり、振り向いて床を見下ろして、殺したい私がまだ床に転がっている気がしました。あの時、死んでいたら、どうなっていただろうな。


居なくなりたい。自分の存在を消したいという思いを希死念慮という名前で呼んで良いなら、私は4歳の時からその芽を育てていることになる。

思い出すのは保育園の、電気のついていないトイレに隠れていたこと。見つかりたくない、離れたい、と小さなトイレのドアに鍵をかけて、ドアを背に蹲み込んでいた。遠くに響く人が駆ける足音が近づいてくることと、自分を探し回って呼ぶ声が、とても恐ろしかった。私の物心がついた時の記憶はここから始まっている。

4歳〜6歳まで、私はある人に異常なほどに執着されていました。私のことを「友達」と呼んだ彼女とは、四六時中一緒に過ごしていて。と、言いながら、彼女には、ていの良い言うことを聞く相手くらいに思われていたんだろうけど。

彼女の意に沿わない行動をしたら毎回泣かれた。花火だってもう少し爆発まで時間くれるぞってくらい、彼女は簡単に泣いた。泣いている方を宥めた方が早いからか、何かあると先生はいつも彼女の味方するので、決まって私が悪いことになった。例え、私が大事にしていたシール、おもちゃを取られていようが、一緒にいたくなくて必死に逃げて、他の友達を使って彼女が無理やり私を捕まえようが、「私は悪くない」と彼女が宣言すれば、そちらが正しかった。

私はこの時、大人にも反論ができるということを知らなかった。違うと伝えることもしなかった。ただ、ひたすら自分を見て苦い顔をする大人を見たくなくて、泣き喚く声が響く時間が早く過ぎるように怯えていた。ごめんなさい、と誰にかも分からないまま、謝って。仲良くしてね、と先生に言われ、先生が背を向けた瞬間にけろっと笑っていた隣の彼女の顔がいつまでも忘れられない。

それでもって、彼女に頼まれて捕まえてきた友達に後から謝られました。私が怒られているのを見たらしい。巻き込んで申し訳ないことをしたな。その子とは今でも遊ぶ仲です。このこと、忘れてるだろうけど。

こんな状態だったから保育園が大嫌いで、保育園を休ませてほしいと話したこともある。けれど、私が預けられていたのは、周りが皆、仕事で忙しかったからで。結局のところ、休むことは叶わず、苦しげに「ごめんね」と言う母親に手を引かれながら保育園に行っていたので、登園前はぼろぼろと泣いていた。私は必ず彼女と居ないといけないと本気で思っていたし、拒否したところで居場所はなかった。彼女の「他の子と喋らないで」を律儀に守っていた。泣かれると思っていたから。彼女は時折、他の子と喋っていたが、そういうものだと思っていた。

人前に出れば涙が引っ込む質だったので、心の底から嫌だったことを先生たちは知らなかったかもしれない。ニコニコした顔の大人と呼ばれる人たちは、誰も自分を助けることはないと本気で思っていた。謝ることに慣れてしまい、現状を変えることは無理だと諦めた。日々、隣の彼女をやり過ごすことに使える心の全てを割いてしまっていた。

今でも朝に異様に涙脆くなる時があるけれど、思えばこれが理由なのかもしれない。皮肉なことに保育園、今も自宅から目に入る位置にあるんですよ。忘れられないんだよね、間取りも、どこに何があって、どう過ごしていたかも。あまり変わってない。よくこんなところ、連れて行くよなあって今でも思う。実際の子どもさんは楽しそうに笑ってるんだけどね。

保育園に行かせようと急ぎ足で手を引く親も、彼女の言いなりに見えた先生も、黙り込んでいたけど、本当は恨んでいたんだと思います。凝り固まった恨みが、皆大変なんだから私が我慢すれば良いという思いに変容する頃には、助けを求めても何も変わらないだろうという無力感をただ飼い慣らしていて。学習性無力感とはよく言ったものです。

それならもう、自分がいなくなった方が早いじゃないか。誰にも迷惑かけないし、私は楽になるし万々歳。希死念慮の芽生えです。幼少期の記憶というのは、とても強く根付くもので、この思考は今もまだ根底にある。ふとしたときに、呼吸するようにいなくなりたくなる。除草剤を撒いてもそう簡単に枯れないんじゃないかな。困ったなあ。

ちなみに6歳で幼稚園に通うことになった際、母親は現状を報告して、彼女とクラスを離してやってほしいと頼んでくれましたが、一方、あちらの母親は私と同じクラスにしてやってほしいと幼稚園に言っていたらしい。笑える。何だそれ。そんなところシンクロしなくて良かった。

で、まあ、結果。私は負けて、彼女と同じクラスだった。それを知った時、母親は私の前では怒ってくれたものの、もう決まってしまったことで、どうしようもなかった。親の中に行かせないって選択肢はとうに無かったし。場所が変わっただけで、保育園と変わらない日々が続いて。また変わらなかったという事実に直面して、一層増大した虚無がただ心中を跋扈していた。聞き分けが良くないと生きられなかったんだ、私は。

彼女と過ごすのが当然だった。

幼稚園の時、こっそりと好きだった編み物をしていたときに横から取られて、私のもやっておいてと押し付けられた記憶がある。ついでに、私の編んだものは戻ってこなかった。沢山の色を使うために、頑張って糸を繋ぎ直していたんだけどな。彼女は灰色の糸を選んでいて、自分なら選ばないのに、と思いながら仕方なく編んでいた。出来上がって、編んだものは速攻でゴミ箱に捨てた。彼女はこちらに渡したものの出来上がりを確認することはしなかった。もしも聞かれたら、捨てた、と言い返したかったんだろう。叶わなかったけど。あーあ。本当惨めな。

逃げたいけど逃げられない。
逃げたところで連れ戻されることは予想がついていて、そのせいで親に見放されることが恐ろしかった。

親の意に沿わなかったら見捨てられる。何ででしょうね、ずっとこう思っていて。今も、この人たちは自分の望みに沿う娘が好きなんだろうなと思っている。そろそろ現状を見て、良い子の幻想を捨ててくれないかな。今、めちゃくちゃ状況が悪いので。親不孝まっしぐらです。

正直、幼稚園の記憶ではっきりと覚えているのはそれくらいだったりする。何かしらあったのだろうが、しんどかったな、という思いの輪郭だけがぼんやりと残っている感じ。人の脳は良く出来ている。

少なくとも楽しかった思い出を探そうとすると頭の中に靄がかかる。なかったわけではないはずなのに。

7歳になった。小学一年生の時、彼女は引っ越して行った。周りが寂しがったり、残念がる中で、離れられたと一人ほっとしていた。涙が出るほど嬉しかったし、実際に布団に潜って泣いた。

こんなこと思う私は薄情だと少しだけ自分を責めて、ここで、やっとようやく呼吸ができるようになった気がした。

もういないんだ、ということを彼女のクラスを覗き込んだとき、端によけられた机を見て実感して、また泣いた。自由になった、ってあの感覚は得難いものだった。あの感覚はもう一回感じたいな。どこでもいける、自分の意思で人と話せるってすごいと本気で思っていた。

それから。小学校の時は、他の人と過ごす時間を取り戻すように、人並みに遊びまわって、好きな人もいたりして、それなりに楽しい時間を過ごした。

で、中学一年で不登校になりかけた。保健室にしょっちゅう駆け込み、クラスから逃げ、吐く、泣く、嘆くの分かりやすい異常を一通り、あと、あまり推奨されないこともやった。

周りの人達が大人になりはじめ、数年分、健全なコミュニケーションの遅れがあった私は、まあダメだった。ものの見事に人付き合いで失敗した。今でもその時を思い出すと、関わりがあった人たちへの申し訳なさでのたうちまわりたい気持ちでいっぱいになる。本当にごめんなさい。友達?になってくれた人達、しんどかっただろうなあ。

それまで、周りの人、先生、親、諸々、誰かの機嫌をとるというコミュニケーションばかりとっていて。相手を笑わせなければいけない、退屈な思いをさせてはいけないという強迫観念に似た焦りからずっと口を開いてばかりで、人の話を聞くべきときに聞くことができないままになっていることに気付いていなかったという。うえ、本当に吐きそう。胃が痛い。ちなみにこれは別の悪い方に向かって治りました。ずっと一難しかない。

一人で学校で過ごすようになって。集団を重視する中でのこの状況は、正直なところ、かなり堪えた。目に写る全てが上手く出来ない自分をせせら笑っているように見えて、その場から逃げることばかり考えていた。

それから、小学生の時の性格が一変して、自分から口を開くことが極端に恐ろしくなった。人から隠れられることにひどく安心した。迷惑をかけるから関係を結ぶのも集団で過ごすのも、可能な限り避けたかった。

毎日毎夜、いなくなりたいと寝る前に祈って、そうして、目覚めて生きていることに絶望するものだから、起きてからいつまでも布団から動けなかった。父親が通勤する車に乗せられて何とか学校に行っている状態で、父親に、仕事に遅刻すると言われたらふらふらと車に乗るしかなかった。

車から降りた後、逆走しようとする足を無理やり引きずって門をくぐって。数十メートルの校門までの道のりの間、横を通り過ぎる車に「頼むから轢いてくれ」と願って、このまま車道側に倒れてしまおうと思うことが何度もあった。相手様に迷惑極まりないから、やらなくて良かったと今は本気で思う。死ぬなら一人で死のうな、自分。

クラスで席についている時は、暴れて逃げ出したいような心地に何度も駆られていた。窓の外を見るのが好きだった。ベランダから飛び降りたら、というお馴染みの想像は両手の数を超えたあたりで数えることをやめた。教室のベランダから見た地面は、木が少なかったから遮るものがなくて良いな、これなら飛んだらすぐ死ねるなあとか思っていた記憶。

それでも、ある時、部活に転部してきた心優しい人か何を思ったのか、構ってもらえるようになり、二年の後半、三年は楽しく過ごすことができたので、プラマイゼロにはなったんだろう。本当に夢のような時間だった。そのときに関わってくれた人たちは、感謝してもしきれない。ベランダに出なくて良い。教室の中に居てもいいのだと思えるのは、とてもありがたいことだった。

そうして、中学を卒業し、高校に進学した。高校もトータルで見たら良かったんだろうと思う。今でも友人と呼びたい大事な人達が出来た。勉強では四苦八苦していたものの、部活やら休みは、とても心は落ち着いていた。

で、幼少の記憶の話をしているのに、高校まで話を突っ込んでいるのは、高校三年のクラス替えが関係するからだ。

あの彼女が同じクラスになった。彼女は他の学校から同じ高校に進学していた。知ってはいたが、クラスが異なっていたため、それまで必死に見ないフリをしていた。知らないと思い込もうとした。しかし、何の因縁か三年で同じクラスになってしまい、否が応でも近くで彼女の姿を見ることになった。彼女を見ると胸は暗く沈み、ずんぐりと鉛玉を飲み込んだような重さだけが喉元に有り続けた。

彼女はとても可愛らしい高校生だった。よく笑い、普通に部活や恋や学校を楽しめる、明るい未来を見つめている高校生になっていた。

もう、私と彼女は話すことはなかった。本当に一切も。ただ、その輝かしい姿を、消えたい遠目で見ていただけだ。

この時、私は大事に思う友人がいた。
この人生でなければ、きっと交わることはなかった。だから、彼女と立場が逆だったら、とは思ったことはないと断言しておく。想像もできなかったしね。

話は変わるが、私は小学校のクラブ活動で2年間、切り絵をしていた。切り絵を作る時は、トーンを切る用のデザインカッターをずっと使っていた。

当然、高校の時も常にカッターが筆箱に入っていた。

黒くザラついた柄の細いペン状のカッターは、非常に良く切れた。刃先が脆く直ぐ折れるものの、尋常ではないほど鋭く、床に落とせば刃が直立で突き刺さるほどだった。皮膚を切れば、切った傷跡が直ぐには見えず、突然、切り傷が血と痛みを伴ってやってくるような、時間差さえ見せるほど。とにかく切ることに優秀でとても愛用していた。

三年になり、少しずつ一人で過ごせる時間が出来てくると、無言でカッターを見つめ、手に握る時間が遥かに増えていた。

目の前に黒い画用紙があるわけでもないのに。
あの時、私が切りたかったのは。


本当は復讐したかったです。
お前のせいでずっと苦しかったと一度でも叫びたかった。
恨み辛みは褪せていなかったのだと知った。
薄く見えにくくなっていただけで、ずっと靄のように胸の内に存在していた。

出会わなければ、顔を合わせなければ。思い出すことはなかったのに、と何度呪ったか分からない。逸らしたいはずの目は図らずも幸せそうに見える彼女を追い続けた。

私は刃を体に突き立てることも、口汚く罵ることも、当然彼女にはしなかった。皮肉にも聞き分けの良い小心者の自分には、他人に向けて行動を起こすことなんて出来やしなかった。

何もなく、卒業して終わった。
それだけです。
どうにも飲み下せない、惨めな苦しさが残っただけ。

結局、どんなに誰かのせいで苦しいと思おうが、こうして、その誰かは幸せになることの方が多いのだろうと思う。いじめの立役者が知らず知らず警官なり、教師なり、良い人と称される仕事に就くことがあるように。

分からない人が救う立場になったら、いじめも事件も理解できないし、無くならんよなあとテレビで加害者の過去とかを見る度に思う。

自分も人殺しになっていたのかもしれないので。
私は友達だった人をずっと殺したくて、けれど、その時の友達に踏みとどめてもらった良い例です。


中学と高校の時に縁を持ってくれた人たちには、あの子みたいに束縛しないようにがんばるので、どうか友達と呼ばせてくださいってずっと思っている。本当に人を誘うのが怖い。何を言っても自分が好き勝手しているような気がする。そもそも友達ってどういう定義?今でも分からないので手探りです。年だけ取ってしまった子どもです。情けないな。

世間から見たとき、彼女に悪いことなんて一つもなかった。どんなに自分の中では筋が通っていても、社会から見たらただの理不尽な逆恨みでしかないのだから。口を開かなかった私が悪いんだ。

苦しい側は奮い立たせることができなければ、口を閉じて沈むだけ。自分のようにはさせない、もしくはなにくそと立ち上がった人は本当に勇気があり素晴らしいと思う。

正直なところ、私は今も前の向き方を探している。

いつまでも過去に囚われていてはいけない、というありがたいお言葉もあるし、頑張ろうと思う。

そんな私は今でも時折、心の中で、今も使っているカッター片手に彼女を滅多刺しにして、これまで仕事で見たことがある、血みどろで地に伏す人の様を思い浮かべているわけですが。

今まで散々言われてきた「恨み辛みは何も生まないから抱えるのをやめなさい」という言葉達と、そう発した前向きに生きる人たち、教えてください。

もう疲れました。やめたいです。
どうしたら、人を殺さずに生きていけますか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?