自由

日本には自由と言う概念すらなく英語のfreedomを福沢諭吉が【自由】と訳したと言われているようだ。
【自分を由とする】
このことを知ったのも30代のあの頃。概念もなく感覚もない時代に、彼はどのようにこの言葉を選び出したのだろうか…。
西洋の学問に触れるうちにその感覚をイメージしたのかそれとも実感したのであろうか…。
それから120年以上経っているわけだが、近代に生きる私達はこの翻訳語を本当に理解出来ているのだろうか…。【自由】言葉としては、あちらこちらで耳にするが、使うその人たちの中に【実感する自由】はあるのだろうか。
私は使うには使っていたが実は感覚も実感もなかった。
これが【自由】なのかと見出した時に初めて、その実感があった。
概念のようなものは、あったような気がしているが、それはかなりぼんやりしていて、頼りないものだった。曖昧なまま使っていた。今となっては、この【自由】も【誇り】と切り離すことができないものだと思っている。
誇りを持って判断する自由。選択する自由。母の支配から脱却した自分を結構良いと感じた。そして自分の選択に誇りを持つ。
【自由】それは、選択したことの結果を引き受けるところまでが入っている。選択しただけでは自分勝手、やりたい放題だ。
誇りも自由も、他の様々な行い、人となりを表す言葉はそこへつながっていくのではないかと思う。例えば【感謝】という言葉も感謝するべきだ…と言ったりする。するべきだ、ということ自体が既に感謝がないから、べきなのだ。感謝の気持ちが起こってくるものであって、べきものではない。感謝がないから【ありがとう】と【スミマセン】がゴッチャにになっていたりする。
感謝がないから申し訳ない気がするのではないかとまで思う。更に【お返し】をしなければ仮を作ってしまった気さえする。お返しをしない感謝は一生続くありがたいものだ。更に自分もその嬉しかったことを、また別の人に分けてあげたくなるもの。
また次は高校生だった長男に学んだこと。
【敬語を使うべきだ】は、既にそこには尊敬がないから使うべきだと言っているのだ。なので敬語を使うように気をつけなければならない。尊敬していれば自然と敬語が出てくる。私はそうだった。
このように気持ちに即した【実感】もないまま使っている言葉が山ほどあるのに気づいている人は少ないような気がする。
誰かに、または社会の流れに、支配されていたのでは決して分からない、実感することができない言葉だと思う。
私の中で漠然としていたものが、こういった言葉を厳密に見ていくことによってハッキリとしていった。
【誇り】と【自由】は繋がっている。

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