イエスのことば(3)

イエスのことばで長い間私の中に在り続けたことばを思い出すがままに書き出しているので()内の数字はただの数でしかないことを予めお伝えしておきます。

・《異性を情欲の目で見たらそれは既に姦淫したのと同じである》
このことばを初めて耳にした時は、なんの具体性もなく聞いていた。
2度目3度目と耳にする内にそんなことありえない。
何も出来ないではないか……と不満に思うと同時に真面目に聴く話ではないような…それに近い感覚があったことを思い出す。(19歳の頃かな?)
それでも長い間関わってくると本気の本気で聴く話ばかりの中に違うものがあるはずがないと思うとやはり重く苦しい世界へ誘われる思いだった。私はこのことばには、自分が持つ苦しみの上に更なる苦しみを与えられる思いでいた。(当時性に対して不潔感や罪悪感を抱いていたので)「もっと苦しむのだ」と言われているような……。
それでも逃げることはできなかった。そして………

イエスが示される世界は魂のありようなのでこういうことになる。
殺意を抱いたらそれはもう殺したのと同じだと言われているのだ。
私はイエスの世界ではもう既に殺していた。何人も……。とても厳しい世界だ。
けれども赦されているのがこの世界でもある。愛とはそういうものなのだ。
厳密に緻密にできている。

厳密に言えば私は親殺し子殺し自分殺しであり、隣り人(他者)を羨み隣り人の物を欲しがる。私が私自身を嫌ってきた全てが含まれていた。
だから苦しみが増すばかりだったのだ。自分を嫌いなのは、こういう事実をハッキリと分かる前からだった。その時ハッキリと突きつけられて逃げ出したかったのだ。
それを突きつけられ認めるしかない所まで行って今度は今まで出会ってきた全ての人に謝りたい。と思うようになった。(教会に行き始めて15年経っていた)
そしてそれを実践したことがある。ある友人は「そうだったのー、でもよくそこまで分かったのねー、凄い」と言ってくれた人もあったが、むしろ謝ってはいけないのだ、という経験もあった。それは私の中の問題なので返って「そんなことを思っていたんだ!」と相手にとっては嫌なことをわざわざ知らされることになってしまう。なので謝ることすらできない。と苦しんでいた時「うー、苦しい誰かに赦されて楽になりたい……」と思っていた。
その時に初めてイエスが言われる「あなたは既に赦されている」ということばが私に生きた言葉として聴こえてきた。ほんとーーーに全ての罪が赦されているとはこのことだったのだ………。また別の場面で《天国はまさにあなた方のただ中にある》と言われたそのことばそのものをも体験していた。苦しみの全てが赦されている。
私の言葉で説明すると、伝えてくださるのはイエスで赦して下さるのは神。それが私の魂の中で起こっているそんな感じがする。

私は自分の罪を赦され自由になった。
私はイエスの言われるこの世界でズッと生きていきたいと魂の底から思っている。
分かりやすく、ありがたく、統一されていて平和で幸せだ。

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