みんなが真似をするから…という縛り

娘の幼稚園の初日
「お母さん 終わるまでそこで待っててー!」「分かったー、門の外で待ってるわねー!」「うーん!」

あ!いやな予感が…。
案の定 園長が近づいてきて「お迎えの時間までお帰りください」と丁寧に。
私「そう仰るだろうなと思ったのですが、最初が肝心と思って、待つことを約束しましたので…園の外なら問題ないかと思って」と言うと「いやね、他の子たちに示しがつかないから。それと仰るように最初が肝心ですから」ということだった。
「今日は約束してしまいましたので、申し訳ありませんが、なるべく見えないところにいさせていただきます」とこれでなんとか諦めてくれた。(これは毎日続いたが公道なので関係ない)
待っている間に、他の子に示しがつかない?最初が肝心??
何かおかしい…けどどこがどんなふうに?……と考える。
待っている場所は公共の道路、これは大丈夫だよね?示しが…、そうか他の子もしたがるかもしれない、ということなのかな?
でも、それはその子とそのお母さんが考え、その方たちの結論を出すことであって、そこまで私たちが考えなければならないのはおかしいよね。
それに真似をする子の中にもお母さんにいて欲しい気持ちがあって、Mを見て「言っていいんだー」という事を知ったのでは?と思う。
そこでOKするかどうかは、そのご家族の問題で一つの問題提起にもなっているのかも知れないと思う。
最初が肝心……あー。園長の【最初が肝心】は、最初にきっぱり諦めさせるのが肝心ということなのだう。
私は【諦める】が親子の関係の中ではあって欲しくないことなのでその考えは受け入れ難い。
ゆっくり丁寧にその子の速度で育てたい。人の気持ちは合理化できない。それが【一人ひとりを大切にする】ということだと思う。
そしてそこまで園の権限はないでしょうと思っている。この子の生涯に関わっていくのは私なのだから。
でもそんなことが通る国ではない。決まっている 考えない 急いでいる 立ち止まらない…とこんなふうに真剣に関わろうとするものは、はじき出される。

Mは与えられたものをなんの疑問もなく受け入れる子ではない。
自分の感覚で受け入れるかいなかを
いつも自分で決める。私はサポート。
議論しても始まらないので(上の子たちでさんざんやった)ここは図太く道路の隅で待つことにした。4日目で「お母さんもう帰ってもいいよー!」と許可をいただいた😄自分で、大丈夫という確信を得たのだ。
私はこれが大事だと思っている。
信頼してくれる。これが【あなたを大切に思っている】という私の態度。

このことをスウェーデンで話すと、何でそんなに大変なことになるのか分からないらしい。「道路でしょ?子供を待ってるだけでしょ?どうして????となる。

日本でのこのことと反対に思える話。娘(M)が子供を保育園(ドーギスという)に預け始めた頃、お迎えがいつもより遅くなるという連絡メールに、理由を入れた時「あなたが遅くなる理由まで入れなくていいのよー、あなたがお茶をしてるか仕事をしてるか、お昼寝するかは私達には関係ないから、お迎えの時間だけ知らせて!」と言われたとき「あー、私はまだ日本の感覚の中に居た」と気づいたそうだ。
そうなんです。本当に「人は色々よ!あなた達の生活をサポートするのが私達の仕事」「お茶をするのもお昼寝するのも必要ならご遠慮なく」というのが当たり前のように存在しているのです。
他の子が真似をする…まで抱え込むのは、お互いか首を絞め合っていることになるし、他の人と同じ事をすることで、責任を持つことを放棄している。子供のゴチャゴチャを聞かずに済む楽な方法だと思う。
と言うか、放棄して楽な分 別の縛りを手に入れていることに気づいていない…が的確かも…。
他の場面でもそんなことがあって、そちらでは「やりにくい」と感じたりもしているはずだ。そうやってストレス社会が出来上がっていく。
瞬間は楽をしているが、縛られてしまう。

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