イエスのことば(1)

私の中に何十年も残っていてその意味が理解できるまで(私の理解)意識に登っては消えるを繰り返していたイエスのことばを記してみたいと思う。まるで私の魂の扉をノックされているような感じだった。

・二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を重んじ一方を軽んじるからである。この部分については、昨日のnoteに記した。

・《あなたの父と母を敬いなさい》(これは旧約、モーゼの十戒の中の一つ。イエスのことばとは違ったものだ)
私は長い間自分の両親を敬えないと思っていた。そこには「だって〇〇だから」がいくつもあった。
既に結婚をして子どもがいても、まだそれは続いていた。
ところが長男や次男の反抗にふと「私はこの子達の母親だけれど、敬われているだろうか?」と、やっと置き換えるに至った。いやいや尊敬より軽蔑されている…方が強い……絶句。
考えたこともなかったので、平気でいられた。
そこからは私の両親のことなど、どうでも良くなり、自分のどこがどんなふうにか、検証していかなければ…と。
気づいていなければ平気でいられる事にも驚いた。(自分のマイナスのことにはのんきで居られる)
私は数々の悩み苦しみを「苦しみが充実した、とか悩みが充実した」という言葉を使ってきた。多分この時も充実したのだと思う。
私にとってはそれが的確なのだ。10歳から始まって33〜34歳の頃なので。しかもそれ以外のことが何も手につかない身につかないほどにだった。
その言葉に対してある人は「じゃあ苦しまなければ救われないの?」とぶつけられた事が2度ある。同じ人物だ。そうではなく結果としてそうだった。というだけのことだ。
私以外の人のことは、その人と神の間で起こってくることだろうと思っている。

・《覆い隠されたもののうち現れでないものは一つもない》
このことばは、30代前半自分の中の多大な問題に気づき始めた頃(それまでは問題を抱えているイコール母親が母親が…と思っていた)認めたくなかった自分のメンツや欺瞞、隠しに隠して自分でも気づかなかったことが見え始めて自ら告白するのはまだしも他者から指摘されるのは受け入れ難く、そこから認める迄も更なる苦しみが私を縛り付ける。そんな体験の最中にこのことばの意味に気づいた。衝撃だった。神に「あなたは私のすべてをご存知です。私が知らなかった私のことを沢山のことばで気づかせようとして下さっていたのてすね。あなたの赦しの意味が分かっていませんでした。」これがその時の私の思い。
私にとって「覆い隠されているもの」とは私の内面の問題だった。もっと的確に言うと私の中の無意識の部分。
私が知るズッと以前から私の欺瞞、虚偽そして認めない事をご存知でしかも赦していてくださっていた。
何度も何度も聴いたことば。10年間も。
いくらカッコ良く見せようとしても子ども達の魂はごまかせなかったのだ。
私の子どもは神が私に授けられた、遣わされた…そう感じた。このためにと言っても言い過ぎではないくらいに。でも、お互いのためなのだろう。

・《神は愛である》
ということは、「愛は神である」ということになる。
初めの頃に書いたnoteに私は「愛している」と思っていたがそれは愛ではなかった…。自分の子どもが第三者に傷つけられる時には必死で守るが一たび問題が自分対子どもになると、必死で自分を守っていることに気づいたとき、私は子どもを愛していないのだと知った。そこで初めて「愛とは?」というところへ行き着き、このイエスのことばが生きたものになった。
それからの生活は「こんなとき愛はどうする?イコール神はどうなさる?」と変わっていった。
私が子どもに対して決めたお約束事も勿論撤回。
教会に行っている頃よりも一層神と対話する…それはイコール祈りと気づいた。
それまで私が祈りと思ったていたものは願いだったことに気づく。こうあって欲しい、あ丶あって欲しいと。
願いには既に答えがある。「こうなりますように」とか「こうしてください」というように。まるで神のように答え(こう、というのは結論
)を決めている。そして自分の願いを神に叶えてくださいとお願いしているのだ。飽くまでも自分中心。
お決めになっている答えをお聞かせください。が祈りだと気づいた。

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