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数をこなす

昨日のノートに引き続き壊されていく人格について深堀したいと思う。
私には3人の子どもが在る。一番上の子が小1の頃の担任から「経験が少ないですねー!」と言われた。
生後数カ月から子育てに悩まされていたので、その言葉が私の中に、答えの出ないまま、こびりつくように残っていた。経験が足りない……。
小1までに夫の仕事で5度の引っ越しを経験していた。そのほか毎週教会に行っていたので、人との交流も多かった。沢山の経験をしていると思うのだけど……と、どういう意味だろう?と繰り返し意識に上ってきていた。答えが欲しい…なぜ担任に質問しなかったのだろう…と。
そして、昨日の記事の〈気づき〉に至った。その言葉を聞いてから5年も経っていた。5年も…と言っても私の他のいくつもの疑問の中では早い方の部類に入る😵。
答えが見つかるまで、しつこくこびりついたまま私を苦しめる。
さて、経験が足りないとは〈本人自身の経験が足りない〉ということだった。(つまり、外側からの働きかけ)その 担任が仰ったことの答えになっているかどうかは、確認できないままになっているが、私はこの答えで十分に納得している。昨日書いたように、外側から与えられる経験は、身につくことが少ない。何故なら関心を持ってそこへ行ったのではないからだ。この〈そこ〉というのは、場所とは限らない。物、事、気持ちも入っている。与えられた物は、十分に遊びこなせないし、使いこなせない。発展していかない。事の中でも与えられた事では、当事者にならないので、外側から見ているだけ。(これは目で見るだけの見るではない)。
場所も同じ、連れて行かれて上辺だけしか見えて来ない(さほど関心がないから)。気持ち、与えられたものでは、あまり気持ちが起こってこない。自らの選択であれば、まずこの選択で良かった😃この選択は失敗だった😭。どちらの結果も大いに自分の経験として残り、そこから発展する。支えや共感があれば、更に。
そう、この経験が足りなかった。
私は、ガッカリさせたくない…という気持ちが強く、喜ばせたいという欲求に突き動かされながら、この子と接してきた(ガッカリするという体験も大切なもの)。なので、選択の自由も結果を手にする自由も本人にはなかった。全てが他人事だったのだと思う。結果「経験が少ないですねー!」という事になってしまっていた。1年生で言われ、6年生で気づいた。生まれてから12年もの間、そのように過ごして来たことになる。私の目の届かない所で、ほんの数%の自分を生きてきたかもしれない。気づいたときの衝撃はもの凄いものだった。死を意識した。
暫くして「何を思っているのか!甘ったれるんじゃない!」と自分を叱咤した。益々死にたいと思う。
けれども、この子からすれば、勝手に産み勝手に先に死ぬのか!という事になる。ならば、一緒にと思うと、勝手に産んで、勝手に殺すのか!という事になる。そこで初めて自分がしてきた事だ!ということを認識する。そこから〈赤ちゃんからやり直し!〉という事が私を奮い立たせた。怒涛のごとく自分の姿が見え始める。見たことの全てをやり直す…。私の気持ちの上で、この子を赤ちゃんとして付き合う。表面的には(言葉や動作)12歳として付き合うが、内容は「どうしたい?あなたがしたい事を手伝うわよっ!あなたがしたいようにしていいのよっ!」という具合に。目まぐるしく取り戻していくのが見えてきた。
4年生の時かかりつけ医に、背骨がくの字に曲がっていると言われたことがあって、姿勢を繰り返し注意していたが、やり直しを始めてからは、全く注意もやめていた。が、気づけば真っ直ぐに😃。こんなふうに目に見える形でも変化が…。
そのくらい私が彼を壊していたのだ。
こんな出来事が私を支え、これでいいのだ…と思わせてくれた。
毎日が穏やかで幸せになっていった。いつしかやり直しという感覚はなくなっていた。当然の関わりに…。

後に親の私が尊敬するほどの人物になっていった。
沢山の経験をさせて来たと思っていたが、ただ数をこなしていただけだった。

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