他人にならできる
母の介護をしていた頃よく「偉いわねー!」と言われていた。その度に「やりたくてやってるのだから偉くはないと思うよー!」と言っていた。嬉しくも何ともなかった。
やりたいことをやるのは、どんなに無理をしてでもやりたい。私はそうだ。
嫌なことを頑張ってやっている人を見ると偉いという言葉は使わないが、すごいなー!と思う。
【私は嫌なことを頑張ってやる】というのが全くと言っていいほどできない。
なんで出来ないんだろう!と怒りにも似た悩みを持っていた時代もあったが、今はもう諦めている。
でも、なぜそんなに嫌なのかを突きとめ、はっきりすると嫌ではなくなり出来るという経験はいくらもある。
さて何を言いたいかと言うと、友人、知人とばったり会ったりするとよく介護の話になる。お互いの親がそんな年齢になって来たからだと思う。
そういうときに決まって「他人にはできるのよねー!」という言葉を耳にする。だから私の事を偉いわねー!と言う事になっていくのだ。
私の場合は20年越しの想いが遂にやってきた。という気持ちのところに居たので、彼女たちとは違うのだと思う。
だから「そうなんだー…」と応えるしかなかった。
でも内容を変えれば、その人たちは子育ての最中にも「よその子にはできるのよねー!」と言っていた人たちなのだと思う。
その内訳はどんな感じなのだろう?と想像してみる。
すると、あの孫と行っていた公園に集まっていたママ軍団を思い出した。
【他人の子を優先させることを美徳とする】人たち。なるほど、そういうことなんだと思う。
私も母の【良い子】になっていれば、きっとそうなっていただろうと想像した。(母はそれを美徳とする人だからだ)
この習慣(?)はきっと日本人特有の感覚なのではないだろうか。
自己、自分、主体性を育てることを我儘と捉えている。
【基本的人権】を持つ【私は私である、それ以外の誰でもない】という人格的権利。
人間の一番最初に育てられるべきものだと私は思うが、そこを飛び越し他人を思いやるを教えてしまう。
それが後々の膨大な問題へと繋がっていくことに気づかないでいる民族だと思っている。
そこが分からなくて長い間苦しんできた。【私の人生の最大の気付き】と言える。私の人権。【私という存在】その意味がはっきりとわかるという経験。
それが分かったことから物事のからくりにも見える背景が見えてくるようになった。
【私は私である】ということ。それは本当に大切な基本の基本。基本的人権は生まれて最初に手にする権利である。
与えられるべき最初の権利だ。
それが【あなたが一番大切】という体験を与えられること。
自分がその人権をもって大切にされていることを味わってこそ他人(者)が本当に望む事を理解し、してあげられる。その人固有のものを認めることが出来る。いい聞かされて分かるものではない。理屈としての理解は役に立たない。
近年自殺防止を目的に【命を大切に…】という教育やイベント?が行われているそうだけれど、まさにこのことだ。大切にされてこなかった挙句に今度はなんとか言い聞かせる。「あなたよりもっと酷い環境の人もこんなに強く生きているのよ!」と。
その体験もなく【他人を優先する美徳】を道徳感?マナー?のように教えられているので、人の気持ち、自分の気持ちに目を向けることが出来ない。と言うより分からないと言った方が正確かもしれない。
そういう人の中では【我儘】と決められている。
そして教えられたことさえやっていれば良い人に育っていると思っている。
ときには「よく挨拶ができる人よー!」と挨拶ができるだけで良しとされる。ご近所でそれさえしてい、れば良い人として承認される。
なので考えることもなく、それさえできれば良いのだ。(そのことを本人も知らないまま大人になっている)
母が生前言ったことがあった。
私のもとへ来て間もない頃何度か「やっぱり田舎へ帰る」と言っていた。
何度目かに私は母が本当にしたいことを手伝うのが私のやりたいことなのだからと悩みに悩んだ末、母の言う通りにしようと思うに至り、その通りをを伝えた。
次の日 母は田舎へ帰るというイメージの中身は、現実とは違っていたことに気づいたと言った。良いところばかりを想像していたそうで、やっぱり帰らない。ときっぱりと言ったことがあった。
老人ホームに入れば気を遣うこともなく色々やって貰える、でもそれは仕事としてやってもらえているのであって、あなたが私にしてくれるそれとは全然違うと言った。
「私はそんなに気を遣わせてるの?」と聞いてみた。
すると笑い出すように「いいや、夕べ一晩 色々考えてみたら私が一人で気を遣いよったとよー!」と言った。
「良かったー、私はしたくてしてるのだから気を遣わせるようなことはしていないと思うけどなー、と思ってたのー」と言った。「そうそう。そん通りよ」と母。
私は内心凄い!そこまで気づくのはよほど真剣に考えたのだな?と思った。
これが本当を生きるということだと思う。見せかけで付き合うをなくしたいと思っていた。
私が真剣に生き真剣に関わっている、その中に母も組み込まれた気がした。
私がこれまでクドいほどに書いて来たのは、このことを伝えたかった気がする。
他人には出来て家族にはできない。
他人には出来ると言うそれは心を砕くほどに懸命にだろうか……。
礼儀?親切?のようなものではないだろうか…。これらも人としてとても大切な気持ちなのだけれど、
それでも、その程度のことでは
人を育て人を看取るにはとてもとても足りないものがあると思っている。(私にとってこれを書くには相当の覚悟が必要だけど。)
それでもそれをやりたいと思うのは、そこにはそれ以上の深い歓びがあるからに他ならない。だから伝えたい。
いじめを受けている我が子、学校へ行けなくなった我が子、仕事に行けなくなった夫、妻、認知症になった親、寝たきりになった親、これらの人たちは死に直結するような位置にある。
それを他人に任せ、その世話をしてくれる他人はまた自分の家族を別の他人に任せる、その上家を留守にする……。どういうことなのだろうか……。経済が回るという意味では良い循環なのかもしれない。😓
自分がしてあげたい事をして上げるのは受ける側には「本当は違うのだけど、せっかくしてもらっているのだから」と気遣いだけが残り、それを長く続けていれば不満でしかなくなる。
反対に、して上げている側はこんなにして上げているのに文句ばかり言う……と、こういう構図になる。
【他人の子を優先することを美徳とする文化】を教えられて来た結果に他ならないと思う。
【他人にはできる】というのはその程度のことなのではないだろうか。
一番してもらうはずの時期に、よその子を優先されて育った。
回り回って偶然に優先してもらう時がたまにある。しかも知らないよその人に……。それが日本の子ども。
つまり人生がそこに始まりそこに終わる。いずれ終わる日が来る自分の人生も……。
【自分の子どもの一番の理解者】になっている親を非難することをやめてください。
そして全ての人が【自分の子どもの一番の理解者】になってください。でなければ膨大な重大な問題が残ります。
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