イエスのことば(6)

イエスのことばで長い間私の中に在り続けたことばを思い出すがままに書き出しているので()内の数字はただの数でしかないことを予めお伝えしておきます。

・《私の名によって二人以上の者が集まるところを教会と言う》

イエスのことばは、全てが魂のありようについてなので、教会というものも建物のことではなく状態を表している。と私は解釈している。
ところが人は2千年経った今も建物を教会だと思っている。
雨風を凌げれば良い程度のことだと思うが、2度も同じことを書いてしまうがきらびやかに飾り立派な建物を作る。まるで神が、または他の宗教では仏が、お望みかのように。
むしろお嫌いではないかと思う。
高価さとは無縁のお方々だ。ただあの時代によくもまああんな凄い建物を作ったなー、とその思いの深さに触れる。私にとっては人の思いのつまった歴史的建造物だ。お寺も教会も。
私達人間は自分がしてあげたいことをするのが良いことだと思ってしまっている。あヽしてあげたい、こうしてあげたい。これは人と人の間でも起こってきていて時には迷惑なのにお礼をしなければならないということが多々あった。現在はそのようなお付き合いは全くなくなっている。(私の周りの人には私の自己紹介が行き届いているから)
イエスの言われる教会とは建物のことではない。

・《先生と呼ばれる者になってはならない》

これはイエスを描いた映画の中でイエスが語られる場面で知った。実際に聖書のどこに書かれているかは知らない。
ただ私は先生と呼ばれる事での誘惑を少しだけ体験した。
いつの間にか偉い人になって行く危険性がある。これもまた「なってはならない」という禁止ではなく、そういう誘惑に侵されることにならいための救出のことばだと私は感じている。いい気になっている状態は心地の悪いものだ。しかし心地悪さはいつの間にか消え去り本当に偉い人に(のように)なってしまう。
それは私にとっては最悪な状態だ。

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