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『ごんぎつね』なら昔から読めてなかったぞ

 この問題は、昔からある「境界知能」問題ですので、ひとくちに「『ごんぎつね』を読んで文脈が分からないのは日本の国語教育の危機だぞ」と煽られても「なるほどですね」としか思わないやつなんですよね。

 境界知能とは、知的障害とされるFSIQ70よりは上だが、一般的な学術理解が可能となるFSIQ85未満の子どもたちのことで、統計的に1.6%から2.0%ぐらいの子どもがここに入ります。よく「統計的に数字が違うじゃないか」と言われますが、実はFSIQ100が標準としつつ、現代日本の平均FSIQは104から105の間と見られ、100を中心とした釣鐘状の正規分布ではないので注意が必要です。

 で、これらの境界知能の子どもたちや、情報を受け取るリテラシーが読み書きではない子どもたち(その代わり、図形や動画、お話などの解像度は高い場合が多い)からすると、はっきり言えば『ごんぎつね』のように状況描写を読者側の想像力に依存する文学への読解は苦手なのは当然です。そして、これらの能力は鍛えれば上がっていくとは限りません。分からないものは、分からないのです。

 ただ、石井光太さんの考え方、危機感も良く分かります。本来は、相手の心情や状況から見て、このように(当然)解釈するべきというのは、国語教育の基本だと言われればその通りですから。

 他方で、このケースで言うならば「煮られているのは猟師の死んだ母親」と認識するのも独創性、多様性の一種であるのと同時に、いま義務教育でも取り組んでいる協創型授業、アクティブラーニングにおいては、そのときはその子どもはそう解釈しても、話し合いの中で正解を見つけ出し、あるべき解釈に立ち至るという経験を踏むこともまた良しとされます。

 冒頭にも書いた通り、一般的な国語能力、本件で言えば読解力について言えば、昨日今日『ごんぎつね』が読めない子どもが増えたのではなく、昔から境界知能問題があって、それが現代風に表出したに過ぎないと理解するほうが正しいと思います。



神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント