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菫色の実験室vol.5|佐分利史子|夏の夜の惚れ薬『恋の三色スミレ』

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 今日は、菫色の時間が訪れる少し前に実験室の玄関ホールに到着しました。不思議なことに、いつもはそこはかとなく張り詰めている空気が、ほんの少し緩んでいます。居住まいを正す菫色が訪れるまで、意外にも安穏としたひとときが流れているようです。

 スミレの香りに誘われて、長い廊下を歩きはじめました。
 ここを訪れる時は決まって、白衣に合わせた菫色と白のコーレスポンデント・シューズを履いています。カンガルーのしなやかな革が足先をきっちり包み、靴底もすべらかにスミレの群生に触れていきます。
 古い文学全集を紐解いた時の、時の胞子がふわりと舞い上がるパウダリーな匂いが、スミレの香りに重なりました——実験室からの合図です。



 誰もいないとわかっていながら、入室時は必ずノックをします。コンコン、という音の響きにも部屋ごとに個性があり、そんなささいな現象からも、部屋の主の輪郭がぼんやりと浮かぶからです。

 入室してまず目を引いたのは、菫色の液体の入った小壜が並んだ硝子戸のあるキャビネットでした。全ての菫色がここに揃っているのではないか——そう思わせる程、壮観の光景です。
 細い引き出しが並んだ棚には、羽根ペンやガラスペンなどの筆記具が敷き詰められており、この世の菫色を偏執狂的に蒐集した小壜の中身がインクであることが分かりました。

 羊皮紙や手漉きのコットン紙なども見つかりました。ここは写字室なのでしょうか——しかし、棚という棚、引き出しという引き出しを覗いてみても、肝心の「文字」が見当たりません。

 どのぐらい歩き回ったでしょう。ようやく、マーブル紙が仕舞われていた布張りの箱から、最初の文字——実験室の日誌を見つけました。

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 壮観の小壜の中身が、インクではなく「惚れ薬」であることが日誌から判明しました。「三色」から「きれいな青色」を取り出すために、どれほどの年月を費やし、試作を繰り返したのでしょう——完璧を目指す研究員の美学に、ひれ伏す思いです。
 日誌には、一枚のカリグラフィ作品が留められていました。澄んだブルーと深い菫色が印象的な文字群は、紙とペンの擦過音が静寂の中でありありと聞こえてくるように瑞々しく、いままさに書かれたように新鮮です。
 と、目で追ってゆくリズムに合わせて、スミレの香りが立ち上ってきました。そう、これは、ついに完成した惚れ薬で綴られた一篇だったのです。

 雇い主がいつもよりも少し早い出勤をうながし、急がせた理由もわかりました。ただし、詮索を嫌う方なので、この件には触れずにおきましょう。

 同じ箱には、革装丁された一冊の書物も入っていました。扉の前で感じたパウダリーな古い匂いは、妖精舞う「夏の夜の夢」の香りでした——

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佐分利史子 | カリグラファ →HP
伝統的なカリグラフィ文字を基調とした作品を制作している。文字そのものが持つ何らかの力を、題材(詩や文章)が持つ情景や感情に変えられればと考えています。
紙一枚の形で成立することを前提に、額装も作品の延長として自身で制作していますので、あわせてお楽しみいただけると嬉しいです。
オンライン上のストリート「モーヴ街」では「スクリプトリウム|菫色の写字室」を共同運営、作品発表をしています。

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作品名|夏の夜の惚れ薬『恋の三色スミレ』
ガッシュ・透明水彩・アルシュ紙
作品サイズ|18.6cm×15.7cm
額込みサイズ|29.5 cm×26.5cm
制作年|2020年

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 三色スミレの色を追求し、澄んだブルーと深い菫色でシェイクスピア『夏の夜の夢』を綴った馨しい一作。伝統書体を重んじる端正の文字から植物のように伸びゆくストロークの美しさに、佐分利さまの真に自由な精神性、精緻な一歩にこそモダニティが存在するという美学が見えるようです。
 前半のブルーではパックの台詞を、後半の深い菫色では妖精王オーベロンの台詞を綴り、惚れ薬にまつわる場面でありながら、文字の風景がどこまでも凛とした佇まいである秘密は、自ら手がけられたフランス額装のマットの差し色にありました。
 惚れ薬が隠されていたのは、実はこの細い隙間なのかもしれません。

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