彼酔イ坂〜街角美身~遥か道の幸へ 002/小説+詞(コトバ)
彼女の名前は、生谷遥風(イクタニハルカ)。
高校三年の冬休みに出逢った男との間に、子供が出来てしまったのですが、そのことは親友にも話さず、学校にもバレることなく卒業し、その男と結婚して、子供を出産しました。
その後、次々に出産し、四歳、三歳、二歳という見事な三人の年子の母親になりました。
妻として、母として、忙しい毎日を送っていた遥風のケータイに、大学に行った高校時代の同級生から、卒業と就職が決まったというメールが届きました。
それを読み、ふと今の自分を思いました。
妻であることに不満はない。
子育ても苦ではない。
しかし、高校卒業と同時に家庭に入り、あっという間に四年が過ぎました。
二十二歳…三人の子供の母とはいえ、まだ二十二歳なのです。
一度も働いたことがないので働いてみたい、他の世界も見てみたいと、夫に相談してみました。
気持ちはわかるが、子供たちがまだ小さいから、せめて下の子が幼稚園に行くまで待てと、予想通りの答えが返って来ました。
ですが、それを聞いていた、最近同居を始めた義理の母が、働きに出ることを賛成してくれました。
嫁と、ずっと一緒に家にいるよりはいいと思ってのことでしょうが、子供たちの面倒をみることも快諾してくれましたので、遥風は、ファミレスで働き始めることになったのです。
翔は、自分もまだ新人なのですが、率先して遥風に仕事を教えました。
人に教えることで自分も覚えられますし、若き人妻とも親しくなれますし…。
と、一石二鳥と考えたわけではなく、翔は、教えることが好きなのです。
というより、教え魔なのです。
初めのうちは、教えてくれてありがたいと思っていた相手も、だんだん鬱陶しくなり、翔を避けるようになってしまう程です。
しかし、遥風は、そんな翔の教え魔ぶりを、ニコニコしながら聞き続けてくれました。
遥風も、呑み込みが早く、本当はもう教わらなくても大丈夫なのですが、イヤな顔もせず、翔の言葉に耳を傾け続けたのは、遥風にとって、このレストランは初めての職場であり、少し不安だったのですが、他の従業員たちともすぐに溶け込むことが出来たのは、そんな教え魔の翔のおかげだったからです。
「そろそろ、生谷さんの歓迎会をやらないといけないね」
ランチタイムの客がいなくなり、皿を下げて来た店長が言いました。
「あれ、ボクの歓迎会もまだですよ!?」
別のテーブルの下げ物を持って来た翔が、不満げに言いました。
「あんたは、歓迎されてないんだよ」
ベテランパートの芳川(ハガワ)が、トレンチを拭きながら即答しました。
「マジですか!?」
「かもしれないねぇ」
表情を変えずに、店長が応えました。
「そっかぁ、ボクは歓迎されてないんだぁ…」
翔は、ガックリとうな垂れました。
「ウソよ。そんなわけないじゃない」
テーブルを拭いていた遥風が、真顔で振り向きました。
「冗談ですよ。本気で心配しないで下さい」
「私も冗談よ。もう翔クンのパターンは読めてるわ」
遥風が、翔を見て笑いました。
「やられたわねぇ」
遥風より二つ年下で、翔と同い年の梁瀬(ヤナセ)が、翔の肩を小突きました。
皆に笑われ、翔は、頭をかくしかありませんでした。
「というわけで、歓迎会は、来週の金曜日でいいかな?」
「はい」
「大丈夫です」
遥風と翔は、顔を見合わせました。
「あら、なんか二人、いい雰囲気じゃない!? 」
芳川にからかわれ、また二人は顔を見合わせました。
「怪しいなぁ~!」
梁瀬が言うと、皆が一斉に囃し立てました。
遥風と翔は、三度(みたび)顔を見合わせました。
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