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看護師歴20年、こんなおもしろエピソードがあるよ。

すごいなー、看護師、20年も続けてるんだ・・・・

ほとんどの事が3日坊主な私としては、20年も続けている事といえば、生きてる事と看護師くらいです。

20年間同じ病院で働いていたわけではないので、すこし、おさらいしてみましょう。

「なぜその場所で働くようになったか」も書いてみるので、それによって私の看護師としての姿勢も、あらわにしてしまいましょう。

①平成8年・整形外科病院155床・大阪(1年)

ここが、私の看護師人生のはじまり。専門学校を中退して飛び込んだ病院です。選んだ基準は、「給料」「家から近いか」「新人でも大丈夫か」。看護学校がイヤで辞めるのに、准看護師として就職するなんて、ちょっと変ですけど、19歳くらいのコムスメには准看護師として働くしか選択肢がなかったんです。この頃のエピソードとして今も脳裏に強烈に残っているのが・・・・

婦長さんが現金で給料をもらっていて、めちゃめちゃ分厚い札束を数えている事を目撃した。

この頃はまだ「看護師」ではなく「看護婦」でした。婦長さんは面倒見のいいおばあちゃんみたいな人でしたが、今思うと頼りなかったなー。ナースステーションの中に仮眠用の二段ベットがあったり、夜勤のときは一人一品おかずを持参しなくてはいけなくて、しかも、先輩方の嗜好も配慮してなるべくかぶらないおかずをにしなければいけないことが、夜勤のいちばんの悩みだったかもしれない・・・・・しかし、あの分厚さ。婦長さんいくら給料もらってたんだろ。すごいなー・・・・・。

②平成9年・内科系病院111床・大阪(3年3ヶ月)

ひとつめの病院、1年で辞めてますね。今の自分は後輩にせめて3年働けと言うくらいなのに・・・若いって恐ろしい。そして、なんで1年で辞めたかをあまり覚えていないところにドキドキしますね。

ここに就職したのは「寮がある」というのがポイント。安くて、やたら広い。そしてちょっと古い・・・・シャワーが無くて、浴槽でお湯を沸かしてそれを手桶で救ってカラダやアタマを洗うという原始的なアパートでした。そして、その部屋でウサギを飼って繁殖しちゃって退室するときに怒られたな。

この病院は位置的に、やくざやさんが特別室や個室に入院してくることが多かったです。肝臓系の治療が上手だったのも理由のひとつかもしれませんね。やくざやさん、肝臓系疾患すごく多いです。

この病院でよく覚えているエピソードは、

やくざさんは、親分レベルはめちゃくちゃ優しい、騒ぐのはしょせんチンピラ。

特に、特別室に入院される親分さんなんかは本当にすごく優しかった。自分が20歳そこそこで若かったのもあるけど、すごくかわいがってもらったのを覚えています。姐さん、みたいな人もきてたなあ・・・・楽しみだったのが夜勤の差し入れ!ステーキ弁当!特上寿司!有名店のケーキ!など、とにかく豪華な差し入れの数々。あの頃は、「差し入れ大歓迎。沢山くれると少し贔屓するよ」みたいなのがまかり通ってた時代。

「俺、患者さんからのお礼で生活してる。半年くらい銀行行ってない」

ってゆー先生も居て、よくゴハンをごちそうしてもらったり、ブランドバックをもらったりしてた・・・バブル?バブルの名残?

自分でやらかしたエピソードとしては、

銃に打たれたのを隠して外来受診に来た人に「診察するからTシャツ脱いでくださ〜い」と言ったところ、実は既に裸で、Tシャツではなく、素敵な彫り物だった。

とか、

「親分の入れ墨がカラフルすぎて、血管が見えない!注射が大変だよ〜!失敗するかも!」と言いながら採血。

親分さまに入れ墨を見せてもらうのが大好きだった私。彫り物を誉められるとみんな一様に嬉しそうだったなあ。しかし、血管見えない発言に子分さんが怒りそうになってた。親分さんは「あんたおもしろいなぁ〜、難しかったら、何遍やってもええで!俺の腕で練習したらええがな」と笑ってくれて、すごくかわいがってくれた。

そんな優しいやくざさん達も、肝臓系の疾患が多いので、最期は部屋中に血を噴射して亡くなったりして・・・・天井の掃除が、結構大変なんですよ。

さらっと終わると思ったけど、以外にあるね、面白い話。もっともっとあるけど、書けない事も多いなあ・・・・


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