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登校拒否のあなたと、登校拒否の子どもがいるあなたへのメッセージ。

さて、登校拒否時代のことを書き綴りますと、本が一冊書けてしまう量になります。あの頃は、「学校に行きたくない私」と「学校に行ってほしいと願う家族」というシンプルな悩みでした。けれど、「学校に行かない・行けない」ということは、登校拒否の本人以外の人生にも大きな影響を与えます。私の母も「私の育て方が悪かったせいだ」とか「私が子どもを傷つけたからあの子の人生を台無しにしてしまった」と自分を責めるあまり、一時期に精神的破綻状態にありました。そして、つい最近まで深く引きずっていましたし、今もまだ完全に良くなったわけではありません。今、私、38歳(2016年2月25日現在)になってやっと、登校拒否の周りで起きるいろいろなことを振り返ることができた気がします。

渦の真っ只中に居るときは、大事な事って、見えてないものなのです。

登校拒否の事についてもう少し詳しく書くのは、「白衣の天使、白衣を脱ぐ。」ではなく、「100%のんちゃんマガジン」にしますので、また、そちらに書かれた時に読んでくださいね。

そして、締めくくりにひとつ伝えておきたいことは、

学校なんか行かなくたって、死にゃしない。

ってことです。学校なんか行かなくたって別にいいのに、学校に行くのが辛くて死を選ぶなんて、もったいないことです。学校の外に、あなたが生きやすい世界が必ずあります。だいたい、学校なんていうのは、「大体同じ年に生まれた、住んでる事が近い子ども」たちを「とりあえず教室っていう箱の中に入れてまとめて面倒みよう」なんていう大雑把すぎる制度なんですから。

私、中学校行ってないけど、楽しく生きてるよ。

きっとあなたも大丈夫。

そして、お母さん、お父さん。

子どもが学校に行かないのは、あなたのせいではありません。

たかが子どもが学校に行かないくらいで、自分が生み・育てた「命」をダメな物扱いしないでください。

そして、自分が産み・育ててきたことを否定しないでください。

たかが学校ごときに振り回されて、大切な命の輝きを閉じ込めないでください。傷つけないでください。

もし、子どもがどうしても学校に行けないなら、学校に行く方法を探すのではなく、

学校なんか行かなくても、自由に自分らしく生きられる方法を一緒に探してあげてください。

私は、学校に行けなかったことを宝物に思っています。

あの頃は、家族を悩ませ、苦しませ、傷つけ、自分も悩み、苦しみ、傷つきました。

だけど、中学校に行けなかったから、今の自分が居ます。

私は、「今の自分」が大好きです。

「今の自分」の中には、「学校に行けなかった自分」も輝いて存在しています。

真っ只中には分からないかもしれない、見えないかもしれない。でも、真っ只中を駆け抜けた私が自信を持って伝えます。

登校拒否だった事は、いずれあなたの宝になります。

だから、登校拒否という時期の、学校に行かなくてもいい自由な時間に、自分の宝物を探してください。

「どう生きたい?」「どんな仕事がしたい?」そんなことを十分に悩める時間は、普通に生きていたらあまりありません。

あなたが「学校に行かない」というチョイスで手に入れた時間を、どうぞ、自分のこれからの人生の為に、使ってくださいね。

さて、話をナースになった理由に戻しましょう。

登校拒否だったことと、ナースになったこと。この繋がりは祖母が敷いたレールでした。

敷かれたレールを生きるもの、一時的にはアリ。

中学校に行かないままに、中学校卒業を目前にし、大人達による家族会議が開かれました。

私がそのころ大嫌いだった父と、祖母による会議です。

父は、「中学校もまともに行けないやつを高校に行かせる必要はない。働かせればいい。」と言いました。

祖母は、「これからの時代、中卒で世の中を生きていくのは厳しい。せめて高校は行かせてやるべき。」と言ってくれました。

ちなみに私は。

何も考えていませんでした。

さっき、「学校に行かない事で手に入れた時間を、自分の未来の為に使ってください」みたいなちょっと感動的な事を書きましたが。

あの頃の自分は、未来とか夢とか将来とか、なーんにも考えていませんでした。したい事もやりたい事もなにも、無かったんです。

だからこそ、今振り返ると、「あの頃にもっと将来の事を考えて行動していたら・・・・!!!」とちょっと悔しかったりします。

助産師だった祖母は、「高校にいくこと」と「手に職を付けること」を考えてくれていました。

祖母にとっての「手に職」が「ナース」だったのです。

そして、奈良県の私立の高校に「衛生看護科」というものがあり、そこでは高校レベルの一般教養に加えて、「准看護師」免許をとるための勉強ができる学校でした。

想像でしかありませんが、インターネットで簡単に何かを調べられる時代ではなかったあの頃に、きっと、色んなところをかけずり回って調べて探してくれたんだと思います。

12万人の登校拒否児童があふれる現代では、簡単に「出席日数が足りない」ということでふるい落とされてしまうであろう、入学試験。

今となっては、「登校拒否児童が希少な存在だったために、優遇措置に恵まれていた」としか思えないんですけれど、入試の成績がクリアー出来れば、出席日数に関係なく入学を許可する、という措置がとられました。

その裏側には、「学校には来れなかったけど、いい子なんです」的な挨拶を、校長先生がわざわざ高校に出向いてお願いしてくださったらしい。

すごいですよね、ありがたいですよね。

そんなこんなで、なんとか入試をクリアーした私は、「衛生看護科」に入学する事になり、祖母が敷いた「ナースになるレール」の上を走り出したのでした。



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