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新しい食材でnote書きたい

何日か前のnoteでも書いたけれど、ここ最近のnoteは、全て自分の抱えていた「なんだかなぁ」の思い出や気持ちを弔うためのものでした。

当たり前だけど、noteって好き勝手書けるわけで。
思い出の匂いとかその時の気持ちは、自分の描写の仕方で多少雰囲気を変えることもできるし、どっぷり救いようのないほど沈んでいた気持ちも、やりようによっては軽くすることもできる。

先月のなんの変哲もない曇り空も、「花曇り」と描写すれば思い出の中の景色の温度を、少し上げることができる。

思い出や、どろどろ煮こごりみたいになってしまった気持ちを、noteというフィルターにかけて自分好みに加工をしてきた。
書くことは救済で、気持ちの整理で、自分の人生を少し生きやすくしてくれるものなんだなと、毎日noteを通して感じていた。

さて、そんなこんなで、毎日noteを始めてから一ヶ月が経ちました。
ばっちり、ネタ切れです。

供養したい思い出はまだたくさんあるけれど、今はまだ書くべきではない、と本能がストップをかけるものが多い。
困ってしまって「エッセイ ネタ」とかで検索しちゃったりする。
もう辞めちゃうか?いやいや、でも、なんでかわかんないけどまだ辞めたくない...と、少なくとも今夜は思っているので、今日も例に漏れず、先人の知恵をお借りしようとGoogle先生に泣きついていた。
そして漂流の末たどり着いたページで、漫画家の藤子・F・不二雄氏の言葉に出会ったのだ。

「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。」
https://medium.com/sentence/コラムやエッセイを書く時の-題材-の見つけ方ーー吉田潮-中川淳一郎-イケダオソト-コラム-エッセイの書き方講座-雑文執筆依頼を受ける方法-d2dfd15c5434  
               より

思い出の冷蔵庫に入っている食材を消費してしまった時に、ネタは尽きてしまう。
自分のこれまでの経験だけでなく、外に目を向けて、自分の感情が揺さぶられるその瞬間を、どんなに些細なことや日常の一部でも漏らさずチェックできるようアンテナをはることこそ、物を書くことのヒントであり、秘訣である、というような内容だった。

今の私は、冷凍保存していた"書ける"食材を、使い果たしてしまったところ、なのかもしれない。お腹は空いた。書きたい。何かご飯を作りたい。でも、食材がない。あったとしても、どう調理したらよいのかがわからない。ネタが、ない。どう書いていいかわからない。

それでも空腹は募っていく一方だから、私はやっぱり、書きたいと願っているのだと思う。
心が動いて、嗚呼、書きたい、と駆り立てられるタイミングこそ、然るべき書くタイミングなのかもしれないし、その方が密度と温度のあるものを書けるのかもしれない。
でも、そう思っているのに、やっぱり私は意地でも書きたいと思ってしまうのである。
それは、知識欲とか、新しい世界との出会いを追い求める飢餓感の裏返しみたいな、一種の発作だったんじゃないだろうか。
(都合よく解釈しすぎかなぁ。でもそれで自分を鼓舞できるならばそういうことにしちゃえ、とか思っちゃう。)

なので、これからは。
冷蔵庫を開けてストックを漁るだけじゃなくて、"今"の私の心が動く新鮮なものを、少しずつ探していきたい。
そして、"今"の私の感性を通して、丁寧に、大切に書き残していけたらいいなと思っている。

追伸
そうしたら、死蔵されてる冷凍食品を美味しく料理できるかもしれない。
思い出の供養も、懲りずに引き続き、少しずつやっていきます。
きっとこれからも、冷凍庫のストックは増えていくと思うので。

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