コンテンツの消費について僕が思うこと

作り手になる事が勝ち組なのだろうか。僕はこの点に関して以前からずっと疑問を抱いていて、この当然の前提に関して意義を唱えたい。

生産者になる事が偉い、俺は消費する側から生産する側に回るぞ、という宣言を僕はインターネットで腐るほど何回も何回も見てきた。コンテンツを消費する事は金と時間の浪費である。故にそれをするぐらいなら、クリエイティブに生きて、生産する側に回ったほうが偉い。そういう空気があると思う。だから例えば今の時代なら、ソシャゲに金を使う事は悪だ、勿体無い、時間の無駄だ、みたいな意見が正論として通っている。一見正論だし、まぁわからんでもないのだが、僕の持論は違う。

コンテンツを消費するという事は、お金と時間に余裕ができて初めて出来る、いわゆる贅沢な娯楽というか、そういう位置付けができる。いくらお金を使わない趣味であっても、お金を生産できるであろう時間を趣味に費やしているのだから、実質お金を使っているようなものだ。時は金なり、と言うしね。つまり、何が言いたいかって、生産者になる事は簡単だ。そして資本主義の世の中では生産者になりさえすればお金が貰える。お金をもらう事で生活ができる。そのお金は生活に必要なものだが、その「お金」と、生産者になれるであろう「時間」が余った人間は、その時点で初めて「消費者」になれるわけだ。つまり、消費者になる事は、生産者になるよりハードルが高いんだよ。

生産性という牢獄に閉じ込められた人生は、その時点で一生自分の奴隷として生きるしかない。「好きな事で生きていく」なんてフレーズは所詮コンテンツ生産ユーザーを増やすための誘い文句に過ぎないとは思っているが、真っ向から捉えたらなんて悲しみに満ち溢れた言葉だろうか。ある意味自分を騙したワーカホリックだ。趣味を仕事にすると言い換えれば、趣味を好きであり続ける必要があるし、趣味=仕事であれば仕事の束縛から解放される事のない人生に迷い込むだろうに。それは自分の人生の奴隷だよ。気付いてなくてもね。

僕の人生における目標はいくつか設定しているが、その中のひとつとして世の中の最高水準の生産物を消費する消費者になりたいという物がある。それは物理的なプロダクトでも、ゲームでも、映画でも、旅行でも、それこそ人から聞くちょっとした幸せ話でも良いのだけど、人間の英知の結晶が生み出したコンテンツの一番美味しいところを生きているうちに味わいたい。

人間一人が生み出せる価値はたかが知れている。殆どの人間は、人類全体に対して殆ど貢献せずに死んでいく。人類全体の功績の中で、ごく僅かな一部分を担うに過ぎない。故に一生のうちに己の五感で触れる事のできる範囲は、消費者の方が圧倒的に広い。自分一人の世界が生み出すものより、他人大勢が生み出した世界のほうが広いに決まっている。だから、限られた人生の寿命の中でより広い世界を味わうためには、消費者を極める事が必要なのだ。

消費者を突き詰めていくという事は、お金と、時間と、心に余裕を持った生産者になる必要がある。資本主義だからね。必要最低限のお金を生み出す事によって初めて時間と心に余裕が生まれる。消費者になれる。つまるところ、より効率良く世の中に価値を送り出す生産者になる事が、より効率良く消費者の道を突き進む事に繋がるわけだ。

結局生産者が偉いんじゃないか!とツッコミを入れたくなる展開かもしれないが、順序が違う。目的が違う。プロセスは同じでも、行き先が違う。僕は人生の目標を生産者になる事としていない。最高の生産者になる事は、最高の消費者になるプロセスに過ぎない、ということだ。

生産者になる事を己に強いられている諸君。一度は使命感を放棄して、頭をからっぽにして、夜景なり、海なり、ゆっくりと世界を眺めてくるといいかもしれない。0から1を作る事に固執するより、他人の作った沢山の1を眺めるほうが、世界は広がると思うよ。ぶらぶらと散歩して、時間を無駄にしよう。絶対無駄にはならないから。

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