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Twitterは安全地帯に成り得ますか?



「Twitterが友達」と聞いたら、snsに慣れ親しんでいない方々からしてみれば、可哀想な子とか少し変わった危ない子なのかもしれないという印象がつくかもしれない。

今日は私の大切な人格形成期に寄り添ってくれたTwitterというコンテンツについて持論を展開していきたい。

私が初めてそういったコンテンツを利用したのは中学生の時のAmebaだった。某アイドルの卵オタクをしていた私は、Amebaで知り合った友達と一緒にライブにいったりグッズ代行を依頼していた。
そのおかげもあってか、snsは趣味の人と繋がる場としての認識を持っていた。

もちろんリアル用のアカウントも使用していたが、学校の同級生の薄っぺらい日常を掲示されても時間と感情の無駄だった。公に私の人生論をぶちまける必要も無いし、仲良い友達には話したい事がありすぎたため専らメールやLINE、それより電話をしていた。当時相当尖っていたので。

高校に入ってから趣味用のTwitterを活発に動かすようになった。今までずっと一緒にいてくれた親友と高校で離れ離れになったり、家や学校に本当の意味での居場所を見出せなかった私にとって、Twitterは唯一の安全地帯だった。
毎日「おはよう」から始まって、逐一出来事を報告したり、頭の中を整理したり、悩みを相談して、「おやすみ」で終わる。Twitterに浮上したら誰かしらに会える。多分これって皆でいう家族のような安心感に近いんですよね。私はTwitterにとても救われていた。

ネットで知り合った人をそんなに信頼して危なくないの?と思われるかもしれない。しかし私はネットが危ないのではなく、「人」そのものが危ないわけで、その人が危ない人かどうかを見分けるスキルを自分が保持していればそれで済む話だと思っていた。別に出会い系としてTwitterを使用しているわけではなかったし、その趣味に対する愛が強い人同士が自分の好きなものの殴り合いをする場だったので、現実世界で近寄ってくる人間より余程信頼できた。

Twitterで知り合った友達とは最長9年目の仲になる。一緒に旅行したり、お家にお泊りしたり、結婚式に呼んでくれた子もいた。もちろん知り合う母数が多い分、よくお話していた子と離れてしまった経験もある。「小学校の時遊んだ事あるけど、今は疎遠になってしまった子」くらいの感覚で、まぁどこかできっと元気に生きているでしょうと思っている。

Twitterで出会う人が友達に、大切な人に成り得る経験をしてきた私にとって、ネットでの出会いも一つ一つ大事にしていきたい。
「リアルを生きる」とはどういった状態を表すのだろうか?現実世界で笑顔を作って個を潰したような生き方をするのならば、Twitterでありのままの自己開示をした上で関わってくれる人達と仲良くする方がよっぽど有意義で、友達の本質で、リアルを生きていると感じてしまう。
そこに安全な居場所を求めてしまうのは悪たど言われるのは勝手だけれども、とてもつまらない世界で生きているのねと思う。

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