「赤」という色は無い


世界は、言葉で区切られている。
大学院での哲学の授業から得たこの考えは、私の世界の見方を大きく変えた。


例えば、「赤」という色。

世間のいわゆる「赤」には、「朱色」だったり「緋色」が含まれている。それらの総称としてぼんやり「赤」という色があるように見えるだけなのではないか。

世界には無限に広がる色があり、その無限を「言葉」で無理やり区切っているだけである、という。だからひとえに「赤」と言っても各々の区切り方によってその「赤」の範囲は違うし、それは当然のことと思う。

まとめると、各個人が「赤っぽい」色と判断する範囲の重なりを、総合的に「赤」と判断しているだけであり、唯一無二の「赤」という色は存在しない、という話だった。


感情もそうであるなあ、と。

今までこの地球に何人の人間が存在したのだろう。2020年であれば70億人、それぞれの人生がありそれぞれオリジナルの感情が生まれるはずなのに、「悲しみ」「喜び」などという予め用意された言葉でその感情は区切られてしまう。もちろん共通する範囲があるから、その「悲しみ」や「喜び」という感情は共有できる素晴らしい面もあるのだが、一方で誰しも「言葉にできない感情」というものはあるだろう。それは当然の事だと思う。もしそれで苦しんでいる人がいるのなら、名前のついていない感情もあるから安心して、と声をかけたい。


クッキーを焼くときに、ハートや星の形でかたどれる生地もあれば端っこで余ってしまう生地もある。言葉も同じである。世界という生地を言葉という型で全て切り取れるはずがない。

では、その余った生地はどうするか。そのまま捨てるか、その生地を活かすかの2択だろう。そこで活きてくるのが芸術である。芸術は、「言葉で表現できない感情」を言葉以外のカタチで表現してくれる。芸術の存在意義はここにあると感じる。
型からあぶれた部分ゆえ、伝わる人は限られてくるが、だからこそ刺さる人には深く刺さる。

 

世界は言葉で区切られている。ただ、そこからあぶれた部分は芸術がカバーしてくれる。その補完性でこれからもこの世界は成り立っていくのだろう。興味なかったけど、今度美術館にでもいってみようかなあ。



最後までご拝読いただき、ありがとうございました。

2020.9.13

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?