“おねえちゃん”だよね、ずっと。
今日は、また立ち返ってグリーフケアの話。
でも主人公はお子1。
とても不思議なことだけれど、お子2が亡くなってから、じつはいちども彼を夢に見ていない。毎日毎日、彼を思わない日はないのに、わたしの夢にはぜんぜん登場してくれない彼なのだ。3年間のあいだ、いちども。
でも、なんだかそれは、とっても彼らしい気もする。いつなんどきもわたしを求めて泣き叫んでいたお子1とはちがって、彼の視線はどこか外に向かっているなと、生前にも思ったことがあった。ママと視線を合わせるよりも大切な何かに。
お子2から言葉を聞くチャンスはなかったけれど、彼の意識のいちばんにあったのは、身近な人間のなかでは、お姉ちゃんである子1であるようにも思えた。なんでも同じように振る舞いたくて、つねに隣にいたくて。そんな意志を彼からは感じた。寝ているときにも、ふたりはいつも自然にくっついていたしね。
お子2が逝ってしまったとき、お子1は泣かなかった。
わが家に弔いにやってくるどのおとなもみんな涙を流し、嗚咽を漏らしたりするのを見ていたお子は、「じぶんは泣かない」と心に決めたらしく、おとなたちの顔をちらちら見ながら、冷たくなって動かなくなった小さな棺のなかの彼を、愛おしそうに、ちょっと不思議そうに触ったりしてした。
そしてお子2を火葬した翌日の早朝。お子1は、透明なお子2に会った。
時計は4:30をさしていたと思う。「ちょっとさむい」と目覚めた彼女に布団をとりにいって、ふわっとかけようとした瞬間だった。
「いまね、あおちゃんのとなりに、透明なれいちゃんが来たんだよ。こちょこちょってしたらキャッキャッて笑ったの。なのにキオがお布団かけたから消えちゃった」(当時書いていた日記から引用)
まじですか、わたし、見えなかったよ。
それ以来、お子1も、透明なお子2には遭遇していない。
お子2の死を、お子1はどう受けとめているんだろう。
悲しみや虚無感ばかりが大きくならないように、できるだけ、ニコニコのお子2を彼女が覚えていられるように、わたしなりに配慮してきたつもり。
でも本当のところはわからないし、そもそも彼女の問題だから、わたしにコントロールできるはずもない。
それでも気になってしまうのは、誰かから何気なくこの質問を受けたとき。
「きょうだいは、いるの?」
お子1は、お子2を亡くしてすぐ
「いないよ」
と答えるようになった。
当時、お子1も通っていた保育園で最年少だったお子2は、園でも人気者だった。もし、わたしがお子1の立場だったら「弟ばっかり可愛がられて…」みたいな卑屈な気持ちになりそうなのに、彼女からはそんな卑屈さはみじんも感じられず、「れいちゃんはすごく可愛いから、保育園でも大人気なんだよ!」と、いつも誇らしげだった。
なのに、突然いなくなってしまって、動かなくなってしまって、保育園にもいっしょに行けなくなってしまって、彼女はどんな気持ちなんだろう。
そう考えると、どうしようもなく胸がつまった。
だから、誰かから口に出される、何気ないこの質問が、怖くてたまらなかった。どうかどうか、彼女がこの質問を受けることがありませんようにって。
でも、日常会話では、わりとよく起こった。
もちろん質問する側に深い意図があるわけでもなく、聞かれる子のきょうだいが亡くなっているかもしれないなんていう想像は、めったにしないものだよねきっと。
だから、わたしもその場にいっしょにいる場合は、状況にもよるけれど、思い切って事情を話すことにした。というのも、はじめて行った歯医者さんで、きょうだいのあるなしを聞かれて、とても不快な思いをしたから。
こちらの話を何も聞かず、突如上から目線で責められたから(しかも虫歯があったわけじゃないのにぃ)、事情があって歯のケアを後回しにしちゃうこともあるんです。と言ってやった(歯医者さんのみなさん、すみません)。でもそんなことがあったからか、今では何でも気軽に相談できるようになった。
この歯医者さんの診察のあと、「きょうだいはいるの?って聞かれたとき、あお(お子1)はどんな気持ちだったの?」と質問すると、お子1は「本当は、あおちゃんにもいたんだよって言いたかったけれど、説明するのたいへんだから、いないって答える」と言った。
そうだよね。
きょうだい問題(問題じゃないかもだけれど)は、学校でも起こった。
学校公開(昔でいう授業参観)の際、図書の授業で取り上げられたのが、きょうだいに関する本だった。
正直、びっくりした。
担任の先生には、進級する際に提出する申し伝え事項の書類にしっかりお子2のことも書いて渡したのに、先生読んでいないのかな、それともカリキュラムだから避けて通れないのかな。心臓がばくばくして、とにかく驚いた。
「きょうだいがいるひとー?」という質問にお子1は手を挙げなかった。
「自分がお姉ちゃんやお兄ちゃんのひとー?」という質問にも、お子は手を挙げなかった。
授業が終わったあと、いてもたってもいられなくて先生に聞いてみた。
「あの…先生、うちの子が弟を亡くしているって、ご存じでこのテーマだったんでしょうか?」
先生からのお返事は「え? そうなんですか? スミマセン! 知りませんでした」だった。
おーのー。
あの書類はいったい何の役割を果たしたのか。
そして次に先生から出た言葉に、さらに驚いた。
「じゃあ、きょうだいのことは今後、触れないほうがいいということでしょうか?」
え?
いや、そこ、自分で考えるところですから!
と、そのときは思ったのだけれど、先生って、そこまでの仕事はしてくれないものなのかなと、今回のコロナ禍をうけて、残念な意味で納得してしまったかもしれない。もちろん個々の先生によって違うと信じたいけれどね。
(あ、むっちゃネガティブモードなってますね)
今日、ふっと不安がよぎって、お子1にきいてみた。
「ねえ、神さまっていると思う?」
すると
お子1 「え? 神さまはいるよ、天国に」
わたし 「そうなんだ。天国にいるんだ」
お子1 「あたりまえじゃん。だって、天使のれいちゃんといっしょに天国いるにきまってるでしょ」
だって。
なんだか、ほっとしちゃった。
「神さま」や「天国」という概念を、彼女がどこから得たのかわからないけれど、お子1のなかには、あるんだな。確実に、その世界が。
彼女がもっとこの社会のあれこれを知っていく過程で、その理解もまたどんどん変化していくんだろうと思う。そのつど、わたしが対応できるほど世界は狭くなくて、自立して多様なひとびとに出会って、違う解釈に出会って、ときに傷ついたりしながら、さまざまに変容していくんだろう。
でも、「お子2は天使だよ」って言い切れちゃう確信が、彼女のうちにずっと宿っていてくれますようにと、今は願う。
あたらしく出会うひとびとは、きみが「お姉ちゃん」なことに気づかないかもしれないけれど、いつだってお姉ちゃんなきみを、知っているよ。
ずっとね。
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