K

エッセイとは、自分を映し出すものだが、鏡とは異なるだろう。

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エッセイとは、自分を映し出すものだが、鏡とは異なるだろう。

最近の記事

10年後私へ

早いもので、20歳になってしまいました。今後の人生への心配、希望を込めて書かせていただきました。 十年後の私 幼い頃、ブランコというものは、ただの遊具ではなかった。あれは私の世界の中心であり、人生そのものだった。父が背中をそっと押してくれる、その大きな手の温もりを感じながら、私は自分の力で徐々に高く飛び上がっていく。風を切り、宙に浮かび、ほんの一瞬、空を支配する感覚。あの頃の私は、まだ何も知らなかった。だが、その無知ゆえに、世界は無限の広がりを見せていた。青空は永遠であり

    • 初デート

      2022年4月4日。 ( )の中には思うままの気持ちを書きました 人生で初めて、女性とデートをした。 相手は、バスケ部で活躍しているクールな美人で、独特な感性を持った子だ。おかっぱ頭がよく似合っていて、ちょっと不思議な雰囲気を漂わせている。彼女とは2年生になってクラスが一緒になり、何となく話が合うなと思っていたら、いつの間にか会話が増え、ついに「デートしようか」という流れに。まさか自分にそんな日が来るなんて。 (初デートが遅すぎるって?いやいや、中学は部活漬け、高校は

      • 影響

        太宰は言った。「人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。」この言葉を初めて聞いたとき、妙に腑に落ちる部分があった。世間という舞台で人は皆、何事もなかったような顔をして自分の人生を演じているけれど、心の中ではお互いにかすりもせず、ただ独りよがりのストーリーを紡いでいるのかもしれない、と。 けれど、昨今の世の中は、そんなふうに単純には割り切れないほど窮屈だ。むしろ、隣の人がかけてくる「干渉」という名の網に絡め取られ、息苦しさすら感じる。 人生

        • どこからが始まりだったのか、今となっては定かではない。ただ、気がつけば、私はこの単調で機械じみた生活に身を投じていた。朝に目を覚ませば勉強、夜に目を閉じるその寸前まで勉強。食事を取る合間も、働く時間の隙間も、結局は勉強に戻る。これを「軸」と呼ぶべきか、あるいは「呪い」と言うべきか。 私という存在を語るとき、この「軸」――すなわち「勉強」を外して語ることはできないだろう。今日はその私を成り立たせている「軸」について、少々語らせていただこう。軸とは、時に己を縛る不気味な枷のよう

        10年後私へ

          らしさ

          9月1日。 らしさ、というものについて考えるきっかけは、まさか夕ご飯に出てきた「ダイエット筋トレハンバーグ」だった。噛みしめながら思った。「ハンバーグらしさ」とは、一体なんなのだろうか? 「らしさ」という概念が、僕たちの考え方にどんな影響を与えているのかを思い巡らせた。僕たちは常に「らしさ」の枠に自分をはめ込もうとしているのではないか。「女性らしさ」や「可愛らしさ」といった社会的な枠組みを追い求めることで、「自分らしさ」というものがどんどん遠のいているように感じる。 イ

          らしさ

          エッセイ

          8月31日。 中央林間行きの電車に揺られている。通信制限により、目の前にあるのは退屈という名の隙間時間だ。何もできないのならば、エッセイでも書いてみようか。もっとも、このエッセイにはオチなど期待しないでほしい。今のところ、そういう結論は見つからない。 1文字1文字と、自分の感情を並べていくうちに、まるで自分の声を直接耳にしているような、少し気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。それでも、この内なる声を書き留めることに、どこか意味があるのではないかと考えながら、指を動かしている。

          エッセイ