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ひと手間とより一層の努力を注ぐことを忘れてはいけない

前回の投稿で「知識の浅いガキ」なんて暴言を吐いてしまったが、他人に対しての言葉ではないから誤解をせぬように。


人に見えている部分はほんの一部分なんだということについて考えている。
美味しいとか楽しいとか、カッコいいとかかわいいと伝わる部分というのは氷山の一角みたいなもので、ほんのちょびっと海面から出ている部分みたいなものだと思った。


そういう隠れた部分というのは見えていない、隠された部分だ。言い方を変えたらある意味では“人には見せられない、見せたくない”部分なのかもしれない。

なぜかって?
そりゃ、そういうところを見られると良くないことだってあるし、ヤバイことだってある、主には企業秘密な事だったりだ。それに原価とかの金銭面がわかってしまうことだってある。それがわかってしまうのは消費者にとっても至極おもしろくないことだと思うのだ。
ただ、そういうところに直結して「人の努力」というものはくっついているものである。見せたくない部分にこそ人の手というものがかかっている場合が多い。


だから、そんな努力とか技術とか、時間や値段がわからないと、表面的な感激だけしてガジガジ噛んでペっと吐き出してしまうガムみたいな楽しみ方をする人がいるのだ。そう、そういう人になっちゃだめだと僕は言いたいのである。
知識の浅いガキという表現はそこに当てはめたい。


食べ物でも服でも靴でも、演劇とかダンス、スポーツであっても植物もそう、何でもそうだと思う。


僕らはお金さえ出してしまえばそういうものを次々に楽しむことができるのだが、そういう消費しているだけの人に限って「素晴らしいものを自分は楽しんでいる!」という気持ちが薄いように感じてならない。(そんな人ばかりでもないのだけど)

“それがそこにある”という事実に値段がはっつけてあるわけだが…

それそのものがどんな時間をかけてどんな人がどれくらい育てて温めて培って組み立てて仕込んできたのか


さっぱりとわかっていない人が多いような気がするのだ。


小さな絵を描いたりするのにも。
それそのものを説明するなら、「たかだか何千円かの枠に数百円の紙と塗り付けられた画材」である。原価を言ってしまうならそんなところだろう。家に飾ってある絵も、もしかしたら本物じゃなくってコピーしてあるものかもしれない。そうであるなら単なる額縁という枠とコピー用紙なのである。

ところが、そう言っちゃいけない。そんなことを言ってしまってはいけないのである。

それに、原価とか材料費のことも考えてはいけない。そんなことを考えたり計算してはいけないのだな。


ところが、そんな価値ですらわからない人だっているわけで、モノゴトを高いか安いかで決めたり、手間や材料の貴重さをわからないこともある。
もちろんぼったくっている商売人もいるのかもしれないけど、消費者に届くまでの仕込みや手間とか準備の時間を考えられない人にはなりたくないなあと思ったという話である。

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