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キャッチボールと思いやり

ジョギング中に学校の側を通ることがあって、チラチラ見ながら走っていた。
赤白帽子を被っていてみんなでやっていること、それはキャッチボールだった。(最近は体育でキャッチボールなんかやるんだな)今思い返すと男の子しかいなかったように感じるけど、気のせいかな?
チラリとしか確認してなかったからよくわからないな。それはさて置いて。


キャッチボールなんて何年もやっていないし、グローブもはめていない。わりと面白いし、意外にも運動になる。知らないひととやると会話になって良い。
ちょっとだけやりたくなってきたなぁ。


僕のお父さんは、そういう運動系の類をあまり一緒にやってくれなかった記憶がある。
“やってくれなかった記憶”というか、ほぼほぼ、一緒になにかを楽しんだという記憶はないので、友達か兄貴と一緒にキャッチボールをやっていたんだろう。


僕の小学校は人数がかなり少なくて、全校生徒が100人いくかいかないかだった。クラスの人数が10数人で構成されており、それぞれがクラブ活動をしていると人数が足らないため、運動系のクラブは「なんでもかんでもみんなでやる」というスタイル。つまりバスケ、卓球、水泳、陸上、そして野球。全て練習してやらなくてはいけなかった。(サッカーはなぜか無い)

そのスポーツが好きだから嫌いだからとかは関係ない。水着姿が恥ずかしいからとか、バッターボックスに立つのが緊張するから、ジャンプ力が無いからという理由で、やらないという選択肢を選べるなんてことは絶対にない。
みんながみんな公平に全部やるし、試合も出させられる。喘息で走ることができないとか視線を感じると極度に緊張して動けなくなる僕にとっては、もう拷問でしか無い。すごく嫌だった。

運動会の100m走は毎年1位で、兄貴もそうだし、お隣に住んでるジュンジ君もそうだったから、“運動のできるお隣さん同士”みたいで、先生達からは期待されていたみたいけど、本番ではチカラを発揮できなくてダメダメ兄弟だったわけだ。

ところで、野球の話だ。

肩が強かったり、投げるボールが速いと、ピッチャーの練習をすることがある。友達同士でももちろんある。
僕も雪玉とかを投げるのに、コントロールが良い方だったから、一応“器用さ”はあったようで、みんなよりもストライク率は高かったが、野球は嫌いだからそんなにやる気などない。

で、その練習なんだけど。
ピッチャーとキャッチャーだけの練習では、ちゃんと真ん中に投げ込めてストライクが出せるのだけど、バッターボックスにひとが立つと、なぜかそれが出しにくくなるという不思議がある。
これって何だろうか?とジョギング中に考えていたのだけれど、自分の中で解釈したのはこんな考えだ。

「バッターボックスにひとが立つと、ぶつけてしまうのが怖くて、いつもの練習している感じが出せなくなるのではないか?」と思った。

つまり、ちょっとした「やさしさと思いやり」が働いて、ボールが万が一の確率で手が滑ったりしたときに、ぶつけてしまうのを恐れるのではないだろうかということだ。

そんなことが本当にあるのかどうかは謎なのだが、野球をやっていればいくらか自分の身体にボールが当たってしまうという経験をすると思う。それゆえに、勢いよく飛んでくるボールが怖くなって恐れてしまうことがあるのだが、それを自分がバッターボックスの相手に“してしまいそう”で、“もしかするとぶつけてしまうかも”という気持ちが恐怖心として頭の考えの中に生じ、ボールのコントロールに影響するんじゃなかろうか?

ボールが身体に当たるとそりゃあもう痛い。これからバッターボックスに立つことがあるであろう全人類よ。自分とピッチャーのために、ちゃんとボールは避けよう!


危ない挑戦には逃げる準備を、これからの僕は。

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