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「寂しい」と認められるようになった自分は強くなったと思う

「独りじゃないから1人でいられる」

昔、なにかのTVCMで女優のりょうが言っていた台詞だ。文字の表記が正確かはわからない。でも、そういう意味合いだったと思う。

当時の私は中学生だったか、いや高校生か。「ほんとそうだよね、うんうん」と若者ながらに思っていた気がする。

当時からなんとなく1人時間は好きだと思っていた。同時に、割と幸運な学生時代を過ごしていた私は、陽キャたちのなかの不思議キャラとして大体いつも友人と過ごしていた。孤独を感じたことはなかった。

そして四十路になった今、そのCMの台詞を思い出す。数十年も心に残るコピーなんて最高だなと思うと同時に、「あ、私いま、独りで1人でじゃん」という現状にハッとする。

友だちは何人かいる。でも、歳を重ねるにつれ毎日のように密に付き合う人はいなくなった。私自身のその時々の最善の選択を重ねてこうなった部分もあるので、寂しさを感じる時はあるけれど、なるようにはなっているのかなとも思う。

正直、もっと上手くやれたのかなと後悔が浮かぶときだってある。もしかしたら今でもあの子と、もっと仲良いままでいられたのだろうかと。でも、そう、その時の私はベストを尽くしたんだもんね、と思っている。

そしていまの私にあるのは、いくつかのゆるかな繋がり。例えば久々に会えば、心からいい時間を過ごせるけれども、やりとりは数ヶ月に一度あるかないかの友人が数人いる。基本的に日々の生活は1人であり、独り、とも感じている。そんな今日この頃なのだ。

以前なら、「あたし1人とか好きなんで」と決めつけていたのでね。いや、1人は好きだから嘘ではないんだけど、とても一面的に自分を見ていたし、自分は「強い」とも思っていた。「あたしは強いし自分でなんでもできるから、1人で大丈夫」って。今思えば、あれは本当の強さではなかったなって思うんだけど。少なくとも私の場合はね。

いま言いたいのは、私は人と一緒に過ごすのも好き、ということ。今でも1人の時間は大事だと思うし、楽しい時もある。でも、私の場合は誰かと深い部分で日々を少しずつ共有できてこそ、1人の時間も輝きを増すと思う。

最近はだいぶ正直になったので、「誰かに会いたいなあ」という時は自分から遊びに誘ったり、にぎやかな雰囲気を求めてひとりで飲みに出かけたりもする。寂しく感じていたのが嘘のようににやにやしながら帰宅する時もあれば、なぜか寂しさ倍増で帰宅し「家で尻でもかいてりゃよかった」と思う時だってある。

アラフォー、独身、子なし、女性。寂しいのを、たまに属性のせいにしたり、社会のせいにしたりすることもある。世のシステムが悪いんだと、空に向かって悪態をつく時もある。涼しい顔で街を歩きながら、ここでは書けないような小学生の下ネタのようなことを呟くのだ。

旧交を保つのも、新しいつながりを作るのも、努力や意思だけでどうにかなるもんでもない。そして今あるつながりは、私の人生のフェーズに合っているのかもしれない。でもきっと、もう少し日々安心できる、居心地のいい場所が作れるんじゃないか。

それともあまり当事者意識とか持たないで、なるようにしかならないんだからって、あるがままにしておけばいいのだろうか。そのマインドも実際大事な気はする。

答えは出ていないのだが、寂しいと言えるようになった自分は、正直に自分と向き合える強さを手に入れた、ということにする。そして、以前よりも自分のことを、もう少しよく知っているのだと。

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