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案外 書かれない金継ぎの話 spinoff 1 私にとっての金継ぎ

私の周りを見る限り特に金継ぎが流行っているとは思いませんが、どうやらSDGsやサスティナブルの流行りに乗ってメディアが金継ぎを流行らせたいという傾向はあるようです。これまでも器特集のついでに金継ぎが紹介される事はありましたが、昨今は金継ぎだけが独立したトピックになる事が多くなったように思います。

気に入ったものを少しでも長く手元に置いて使いたいという気持ちから、金継ぎが認知されていく事は喜ばしいと思いますが、若干、金継ぎそのものが神格化されてきた感があるのは、個人的に残念でなりません。
とりあえず何でも接着して金色にしてあれば詫び寂びの精神とか、元の器よりも価値が上がるとか、変な付加価値ワードとセットになった上に有無を言わせず日本人の美意識の賛美、金継ぎが善行になってしまうのは、流石に持ち上げ過ぎのように思います。

武術家の方が「武術を一生使わずに終えられる事が最善だ」という話をされていましたが、私も金継ぎに対しては同じような考えを持っています。
金継ぎは、本来、やらない事が一番です。手に入れた物を大切にし、最後まで壊さないよう使う事が、それを制作した人と、物と出会えた運への恩義というものでしょう。金継ぎはエコロジーだサスティナブルだSDGsだと持ち上げれますが、地球も器も壊さないために何をすれば良いかと考えるのが本義だろうと思います。

しかし、実際は大切に使うほど、傷は付いてしまうし、時には壊れてしまうのが人の世のことわりです。申し訳ないと思うも、それでも大切にしたいという願いから、傷の形に『愛着』という名前を付けて自分と物を繋ぎ止めようとするわけで、金継ぎは、それを手助けするために考え得る手段、修理法の一つです。金継ぎした物は形而下の結果であって、それ以上でもそれ以下でもないと私は考えています。
勿論、単なる結果ではあっても、それが最善の結果であってほしいと思いますし、出来る事なら次の世代まで伝わってほしいと考えていますので、材料や修理技術、完成度にはこだわりますが、金継ぎを主役だと考えたことはありません。金継ぎは、傷物きずものや割れ物であっても丁寧に手を掛けてあれば完品と等価あるいは平等に扱うという約束事への理解があって成り立つものであり、あくまでも特定条件下での脇役です。物理的には壊れ物の補助であり、修理箇所の金色は壊れやすい箇所だから気を付けてねという職人の気遣いや、ちょっとした洒落っ気です。金継ぎの技術は素晴らしいものですが金色になっているから素晴らしいのではなく、直して手元に置けること、長く付き合える事実が貴重なのであり、残り続ける主役は壊れ物と人の関係性でしょう。

私が金継ぎに本漆を使用する理由の一つには、脇役として全う出来る材料であるという点があります。漆芸は縄文時代から続く自然環境を利用した技術の集大で、それは物を長期的に維持するための塗料と塗装法という事になるわけですが、有機物である漆は綺麗に燃えますし紫外線によっても分解され、最後は自然に還るという潔さがあります。
陶磁器は、600℃以上の焼成によって結晶水が分離されると残念ながら元の粘土や陶石には戻らない不可逆性の無機物です。風の谷のナウシカで出てくるセラミック文明のなれの果ての世界と同じで、硬質な陶磁器の粒が地表を覆っていくだけで、生命を育む土にはなりません。

どんなに大切な器であっても、いずれは人の手を離れる時が来るでしょう。その時、せめて金継ぎに使った材料は、分解して自然に還ってほしい。と、そう考えて漆だけを使う事にしています。
直すのが仕事の人間が、そんな先のことまで気にするのは考えすぎだという方も多いと思いますが、まぁ、そんな金継ぎ屋が一人ぐらいいても良いのではないでしょうか。

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