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【映画感想】ジョーカー

■公開から1ヶ月、まだ超混んでた

TOHOシネマズのポイントが貯まって映画が一回分タダで観れるってんで、ここはいっちょ話題の「ジョーカー」に行くかと思ったんですよ、こないだの休みに。そしたらすげーヒットしてるんですね。今から行こうと思って調べたら次の回の席ほとんど空いてねぇの。あっても最前列の端っことかで。今もちらっと観たら新宿は2スクリーンでまわしてて計600席くらいあんのにほとんど埋まってた。封切り日からだいぶ経ってるのに、これは凄い。

んでまあその日は諦めて、次の日の最終回だったら大丈夫だろと思ってネットから予約して座席確保。タダで観るのもあれなんでプレミアボックスシート(+1,000円)にしました。

予告見る限りでは地味そうな話だったんで、寝ちゃうといけないから売店でホットコーヒー買って、スクリーン中央プレミアボックスシートにどーんと座ってうぉベストポジションだぜと思っていたらメガネ持ってくるの忘れた。まあぼんやりしてるけど字幕かろうじて読めるしいいかと思って鑑賞して。

観終わって、この映画に昨今のアメコミ映画的な爽快感みたいなものを期待してた人にはご愁傷さまだなぁという感想を持ちながらも、それでも鑑賞者の心になにかモヤモヤとしたものを残したであろう良い映画だなとも思ったりしてね。反芻しながら帰ろうと思ってドラクエウォークしつつ歩いて帰宅しました。

次の日から、「他の人はどう思っているんだろう」と思ってネット検索してみたのですが、結構「全部アーサーの妄想」みたいな感想が多くてですね、ちょっと戸惑ったのです。

たしかにそう思われても仕方ないような演出でした。でもそれは、こんなに過激な主張をしている映画に横ヤリが入った際に「いやいや、実際に何が起こったのかは観客にゆだねてますから」って言い訳するためのものに感じたんですよ。

監督自身もインタビューで「メッセージが何かは観客に委ねたい」と言ってるんで、ぼくなりの考察をこれから書きますね。熱烈なバットマンファンの人はこのへんで読むのを止めて、他所に行くといいと思います。

■これまでのバットマンの設定や話の流れは一旦忘れるべき

そもそも監督は、「70年代後半から80年代頭にかけての話を撮りたかったが、そのままだと予算が出ないのでバットマンの世界観とジョーカーというキャラクターを用いた」と明かしています。つまりアメコミのヴィラン誕生のストーリー以外にも伝えたいテーマがある、ということになります。

そうなると我々がまず捨てなければならないのは、「バットマンに関する知識」です。「こんなのジョーカーじゃない」とか「ブルース・ウェインとジョーカーの年齢差がありすぎる」という感想や意見を読みましたが、そこは果たして重要でしょうか。もしそれらを重要とするのであれば、その人たちは「未来の視点からこの映画を観ている」ということになります。

未来の視点、というのは例えば「ブルース・ウェインは両親をピエロの格好をしたやつに殺され、のちにバットマンとなる」とか、この映画が始まった時点ではまだスクリーンの中で起きていない「バットマンのストーリー」を既に知っていて、原作に沿った展開でなければならないと思いつつ鑑賞している、ということです。これがDCコミック・ユニバースのメイン・フェーズに置かれた作品であるならば、原作からかけ離れた改変部分については怒髪天を衝いても仕方ないと思います。しかしこれは、「バットマンの世界観を借りた映画」なのです。それを踏まえたうえで、我々が"この映画だけ観て"知り得る、バットマンと共通した情報を抜き出してみます。

・ゴッサムシティという街が舞台
・トーマス・ウェインという名士がいる。息子の名前はブルース
・ジョーカーと名乗る男が犯罪者になる
・アーカム州立病院という、重犯罪を犯した精神異常者を収容する施設が出てくる

こんな感じでしょうか。また例えばウェイン一家が暴動を避けて裏通りへ向かう場面で、「あっ、ブルースの両親が殺される展開だ」と心がざわつくことは、「未来からの視点」で観ているからこそ起きるものです。「これはバットマンの映画」という先入観は一旦隅へ置いておいといて、この映画を見るのが初めてであれば、素直にそういう気持ちで臨むのが良いと思います。だいたいこの世界観で十数年後にコウモリのコスチュームした男が夜な夜な暴れまわるって展開になったら、ジョーカーよりもそいつの方がよっぽど怖いよ。

■オマージュを捧げているであろうほかの映画のこともスルーすべき

多くの人が指摘するように本作は「タクシー・ドライバー」や「キング・オブ・コメディ」に類似した雰囲気や流れが出てきます。特にテレビの司会者にロバート・デ・ニーロをキャスティングしたことで、監督はこれを確信的に行なっている、と想像できます。でもそういうのもやめましょうよ。「この流れは〇〇だ」とか「この撮り方はXXだ」などと追いかけるのも、監督がそういったものを撮ってみたかったという理由があったとしても、まずは置いておくべきだと思うのです。二回目以降はそうやって細かく観ていくのもいいかもしれませんが、この映画がヒットしている理由の根っこの部分ではない気がします。

「バットマンの映画と思わない」「オマージュ部分を気にしない」という気持ちになって本作を鑑賞すると、どうにもこんな勢いではヒットしそうにない、貧しく寂しい運の"なかった"男の話になります。

「主人公は貧しい生活の中で母親の看病をしながらコメディアンを目指していましたが職場をクビになり、福祉課で受けていたカウンセリングと投薬も財政難を理由に打ち切られました。ひょんなことからテレビ出演のチャンスを得たのですが、自分をバカにした司会者が許せない彼は司会者を撃ち殺し、自分が引き金となった暴動の中で衆目を集めました。そして結局は精神病院に入れられてしまいましたとさ」

こんな塩っぱい、どこまで行っても救いの無い話がここまで大ヒットするでしょうか。しかし、それがジョーカー誕生の物語として書かれたとしたなら、隆盛なアメコミブームに乗って普段はそんな映画は観ない層にも届くんじゃないでしょうか。

「えっこれってこないだ観たマーベル映画のエンドゲームみたいな爽快感とか特撮とかないの!?」とか「ダークナイトみたいな爆発ドッカンドッカンみたいのないの!?」とか面食らう人も少なくないかもしれません。しかし鑑賞後、「思ってたのとは違ったけど、よくわからないけど凄い映画だった」という衝撃を観客に残せたからこそ、最後までバットマンが出て来ないストーリーになっていてもジョーカーというキャラクターに込められた何かに震えた人々が口々に「凄いものを観た」と未見の人々に話し伝播することで、これだけヒットしたのではないかと思います。

■3度のカウンセリング

この映画のなかで、主人公アーサーがカウンセリングを受けるシーンは3回出てきます。それは冒頭と、中盤と、ラストの3回です。

・カウンセリングを受け、薬を貰う (冒頭)
・カウンセリングを受けるが市の方針で今回で打ち切られることを伝えられ、薬ももらえなくなる (中盤)
・カウンセリングを受け、おそらく定期的な投薬もされている (ラスト)

得られていたものを失い、再び得る、という具合になっています。劇中にかかるフランク・シナトラの"That's Life"の出だしの歌詞はこんな感じです。

人生はそんなもん みんなそう言ってる
That's life, that's what all the people say

4月は上り調子だったのに5月はドツボ
You're riding high in April, shot down in May

でもその潮目を俺は変えれたんだって
But I know I'm gonna change that tune

6月にトップへ返り咲いた時に思うさ
When I'm back on top, back on top in June

この歌に呼応するかのように、物語の中でアーサーの状態は緩やかなV字を描きます。

■すべて主人公の妄想だった、で終わる話ではない

それぞれのカウンセリングシーンに移る時計の時間が同じであることから、「『いいジョークを思いついた』というのは、それまで本編で観せられたストーリーで、すべてはアーサーの妄想」という意見もあります。だとしたら、その妄想を終わらせたアーサーは、ラストカットで何故あれほどはしゃぐのでしょうか。

カウンセリングの時刻については、偶然どの回も同時刻に始まっていて、同じスピードで同じ手順で同じ質問をされているから時刻もカブっていたんじゃないか、程度にぼくは捉えます。 (妄想のようにみせる、という製作者側の演出意図を除く)。

アーサーが冒頭のカウンセリング時に抱えていた悩みは、最後のカウンセリングではほぼ解決されています。親の介護、衣食住、そして「保障された日々」。

ラストシーン以前、そこまで観客が観ていたものは、アーサーの「妄想」と「回想」のふたつではないかと考えます。

「妄想」は、「冒頭でテレビを観ていたらいつのまにか出演者として出ていた自分」のシーンや、「同じアパートに住んでいる女性と恋仲になって、母の看病にも付き添って貰った」という、作品の中で明らかにそうだとわかる演出がされているシーンです。ラストのフラッシュバックではアーサーがその現場にいないはずの、「射殺されたトーマス・ウェインのカット」も差し込まれていますが、あの事件の後日何らかのかたちでトーマスの死が彼の耳に入っていれば、その様子を妄想することは可能です。我々が観たものと同じ映像を使っているのは、何が現実に起こったことで何が妄想かをあいまいにするための演出ではないでしょうか。

また残りを「回想」だと考えると、いろいろ合点がいきます。例えばアーサーは6発入りのはずのリボルバー銃をリロードせずに装填数以上ぶっ放します。映画「ダーティハリー」の1シーンに、「5発撃ったのか6発撃ったのか覚えちゃいねぇ」というセリフがありますが、銃の扱いに慣れていない、それまで銃に触ったことのない (かどうかは描かれていませんが、触ってて部屋でうっかり一発撃ってしまった際の慌てぶりなどがそれをほのめかしています) アーサーの"回想"であれば、「あの時俺はとにかくバンバン撃って、ヤツを殺してやったんだ」程度の記憶になり、何発撃ったかなんて覚えていないのではないでしょうか。そういうふうに考えると、ここをはじめとして「おそらくこれが本筋だろうが、少々辻褄が合わない部分」については、「アーサーの記憶違い、もしくは曖昧な記憶の回想(映像化)」で片付けられる気がします。

そしてアーサーはこの物語の現実世界で、「母親とは血の繋がりのない養子でネグレクトされて育ち、義母と一緒にいた男性から受けた暴力によりトゥレット障害を発症し、働いた先で貰った拳銃でビジネスマンを3人殺し、コメディアンになる夢を持っていたが才能は全く無く (ノートを開いてネタを確認しなければジョークのひとつも言えない、という描写がそれを指している)、それを面白がった司会者をビジネスマン同様射殺している」と考えます。

「それまでの話は全て妄想でした」ということであれば、「俺は彼女とつきあってたと思ってたんだがそれは(入れ子の)妄想で」などという箇所は、「それいる!?」と素直に思います。「いいジョークを思いついた」というセリフが指すものがその妄想自体であるとしたら、あまりにもつまらないじゃないですか。アーサーは、何をジョークとしたのか。

■この世界はまるでジョーク

本編で彼はステージに立ち、「昔はみんなから笑われていた。でも今は誰も笑わない」と話します。これは「人から笑われること」と「ひとを笑わせること」という、似ているようで違う事象の対比となっています。

これを参考に、ぼくがこの映画から感じた最大のジョークは、例えばこんな感じのものです。

「法律を守り、道徳的に生きれば幸せな人生が送れると思っていた。が、実際に待っていたのは不安と絶望と死への恐怖だった。ある時それらを全て無視し、感情の赴くままに法を犯して他人を殺し、道徳に背いて自分の母親を殺害した。普通なら死刑になって当然の所業だが、結果はどうだ。衣食住に困らない環境と、自分が安らぎを得るための薬と、財政事情を理由に打ち切られたカウンセリングの再開を"無償"で手に入ることができた。行政に見放された善良な市民が掃き溜めでのたれ死んでるのに、狂人はその行政に手厚く保護されて生かされてるなんて、まったく悪い冗談だぜ」

「残りの人生は、自分の思うままに生きていいんだ。それで誰かが死のうとも、もう気にすることはないんだ。なぜなら"まともな人間に戻ること"は、自分がまたあの劣悪な環境へ放り出される理由になる」とアーサーは考えたのでははないでしょうか。

「狂ったことをやりつづければ、心配事なんてもう起きない」と達観し、はじめて自然に笑うことができたのではないでしょうか。その境地にたどり着いた彼にもう必要がないもの、それは「カウンセラー」です。型通りの質問と分析をするだけの人間に、覚醒した彼が得た"ジョーク"を理解されるはずはないでしょうから。

「いいジョークを思いついた (まずお前を殺す) You wouldn't get it.」

でももし7月に身震いする出来事がやってこなけれゃ
But if there's nothing shaking come this here July

うずくまったまま死んじゃうよ
I'm gonna roll myself up in a big ball and die

あーあ
My, my

That's Life / Frank Sinatra (意訳)

■クライマックスが示すもの

ラストカット、スーパーラットなんて出そうにない清潔な廊下を血で染めながら嬉々として走り回るアーサー。

「俺は"Comedian"にはなれなかった。だが"Joker"にはなれた」

暖かい日差しが差し込む病院の廊下をぼんやりと映したその光景は、ぼくにはまるで彼がこの世の天国ではしゃいで居るかのように見えたのでした。

The End

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打たれ弱いです、きんたまだけに。

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