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ジェンダー系映画レポート3つ ー世界初のセクハラ訴訟 / 保守女子大を変革 / 砂漠のドラァグ・クイーンー

大学2年生の時に「ジェンダーの社会学」という授業をとっていて、ジェンダー(フェミニズム)をテーマにした映画を観てコメントを提出する機会が3回ありました。


3作品を一言で紹介すると、こんな感じです。

1. 1988年の世界初のセクハラ訴訟
2. アメリカのお嬢様大学の意識を変えた新米女性教員
3. 夢のため砂漠を旅するドラァグ・クイーン

ササッと書いたものなので、表面的だし今の意見とは必ずしも一致しませんが、記録として。(2018年1月9, 16, 23日記述)


1. 『スタンドアップ』 , 2005, アメリカ

■あらすじ
暴力を振るう夫に耐えかねて、2人の子供をつれて故郷であるミネソタ州の炭鉱の町に戻ってきたジョージー。10代で未婚の母になり、再び戻ってきたジョージーに父親は冷たく、母親は我慢して夫とよりを戻すようにというばかり。

夫の元に帰るつもりのないジョージーは、女手一つで子供を育てることを決意し、炭鉱で働き始める。しかし、男社会である炭鉱の仕事に女が働くのは男達にとっては面白くなく、男達はジョージーに執拗な嫌がらせを始める。耐えかねたジョージーは、世界で初めてのセクシャルハラスメント訴訟を起こす。(WIkiより)

本作品は、1988年に行われた世界初のセクシュアル・ハラスメント訴訟をもとにしたものである。子供たちを養うために鉱山で働く主人公のジョージーは、男性社会の常識を押し付けられ、執拗に嫌がらせを受ける。

この映画を観るまで、私はセクハラに対して、「職場で男性(主に上司)が女性に、見た目や性的な事柄などについて喋ることによって、嫌がらせをすること」が典型的なものであるというイメージを持っていた。

しかし現実では、他の犯罪と同様に様々なやり口があり、また嫌がらせ程度では済まないもの(退職や精神的な病気に至るものなど)も数多くあることを、ジェンダーの問題について調べていく中で知った。

そして、「なにか問題があると感じたならば、周りの人に相談して、話し合うなり上司に訴えるなり何らかの対処をすればよい」といった考えは雑であり、そのように単純な思考では済まない問題が多いのである。

では、課題はどこにあるかというと、まだまだセクハラを許容してしまう社会の価値観、文化、規範などにあるのではないだろうか。現在の日本で人種差別的な発言を堂々とすると、白い目で見られ、場合によっては職を失うこともある。

このように、「してはいけないこと」という領域にセクハラを含んでいくことが重要である。しかし、ただ単にいけないことであると示すのではなく、それが当事者にどのような影響を与えるのかを具体的に伝えていく仕事が必要になるだろう。



2. 『モナリザ・スマイル』 , 2003, アメリカ

■あらすじ
1953年の秋、リベラル志向の美術教師キャサリン・ワトソンは、夢であった名門ウェルズリー大学へ新任した。しかし、米国一保守的といわれる大学で学ぶ学生たちはリベラルから程遠いものだった。キャサリンは絵を通して学生たちを変えようとする。(Wikiより)

1950年代当時のアメリカ合衆国における、いわゆるお嬢様学校で奮闘するキャサリンの姿から、時代的な社会背景を読み解くことができた作品だった。

「女性は、結婚して家庭に入ることこそが最大の幸せである」という固定観念に囚われている学生たちに対して、自分の人生を自分で考えた上で、結婚した後に訪れる暮らしが幸せなのか、不幸せなのかを見極めていくことが大切であると説く姿は、当時のアメリカ社会においては異様な姿だったのかもしれない。

私は彼女の考えに全面的に賛成している。その理由は、人が担うことができる役割というものは、社会や過ごしている環境に左右され、規定されていくものであり、それは各人の人生を制限しうるものだからである。

その制限が一概に悪いものであるとは言えないが、親や周囲の人々から、自分のキャリアを定められるほど厳しい制限は、自分の人生を生きることの障壁となる可能性がある。

それゆえ、固定的な考え方があることの仕方なさは認める一方で、様々な価値観・文化的背景・思想をもつ人々に対し、彼らなりの尺度があることを意識し、尊重し、思いやることが重要であると考える。

イスラム教徒の女性が髪を大切にするために髪を覆って隠すことを、暑さに耐えさせられていると誤解することのように、ジェンダーという視点においても、人に偏見を抱くことは多い。見かけだけの姿に惑わされず、目の前の人間を捉える力が求められる。



3. 『プリシラ』 , 1994, オーストラリア

■あらすじ
シドニーに住むドラァグ・クイーンのミッチは25歳の仲間を失ってショックを受ける。アリススプリングスのカジノでの女装して口パクで踊るパフォーマンスの仕事とキングズ・キャニオンの山頂でスパンコールのドレスとハイヒールで立つ夢のため、誇り高い性転換者のバーナデットと若くて騒々しいフェリシアとともに、チャーターしたバスを「プリシラ号」と命名し、アリススプリングまで砂漠の中を3千キロの旅に出る。(WIkiより)

この映画を観たとき、序盤は「カオス」だと思った。女装した男たちがショーをしたり、若い仲間が髪を脱色するガスで亡くなって葬儀をしたり、オーストラリアの砂漠をバスで旅したり、インパクトの強い出来事が色々と重なったからである。

しかし、よく観察していると、異性愛者が同性愛者である主人公たちに偏見を持ち、侮蔑する中でも、彼らは自分の強い意思を持って行動し続けた。それは、マイノリティとして差別的に扱われる状況をただ悲観するだけでなく、自分なりに理解し、受け入れることができているということではないだろうか。

「社会不適合者」「障害者」「発達障害者」「LGBTQ」と呼ばれるような人々は、身体・精神的な差異や、努力では変えようのない課題を抱える。彼らや彼らを取り巻く人々の多くは、それらの差異や課題ではなく、その人自身を批判的に捉え、嫌悪することで、社会に適合する方向に行かせまいとする現状がある。

プリシラ号の人たちは、自分を取り巻く人々との距離感を上手く掴みながら、自分たちの立ち位置を築いていったと思う。しかしながら、普段は明るい彼らでも、悲しみに沈む場面もあり、悲しさの積み重ねが彼らを強くしてきたのだろうと感じた。

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当時はドラァグ・クイーンのことを知らなくて、「女装した男」と表現してしまっていますね。申し訳ない。。。



4. おわりに

いかがでしたか。ほぼ無学だったあの頃よりも学んだことも増えたので、またこの含蓄ある名作を観てみようと思います。

ジェンダー、フェミニズム、LGBTQ+に興味がある方はぜひお話ししましょう〜〜!

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