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暴力とユーモアを等しく描く、その可能性(映画『スリー・ビルボード』と小説家オコナーについての考察)


昨年公開された『スリー・ビルボード』。

僅かな台詞や表情の変化も見逃すまいというくらい没頭して観ていたにも関わらず、脳内では作品とは別の意識が立ち上がって、不思議と冷静に、映画のストーリーと心の声を並行して確かめながら鑑賞していた珍しい経験だったので、今でも印象深く記憶している作品です。

わたしは、映画のストーリーを追いながら、フラナリー・オコナーの小説を思い出していました。


そのとき巡らせていた考えをまとめてみようと思います。


映画のあらすじと感想


物語は、田舎町に住む1人のオールド・ミセス(フランシス・マクドーマンド)が、町外れの道路に立てられていた3枚の大きな広告用看板にメッセージを載せたことから始まります。

彼女は、レイプされ、焼かれて、殺された、若い女性の母親でした。犯人は未だ捕まらず、一向に進展しない警察の捜査に腹を立てていました。

その警察への不満と、警察署長を挑発する文言を掲げた真っ赤な3つの看板は、あっという間に町中の噂になり、彼女の家族や批判相手の警察署長、その部下、町の人たちをも巻き込んで、負の感情の連鎖を伴ってストーリーは展開していきます。



でもこの映画は、犯人が分かって解決するミステリーとはまったく異なります。

また、娘を殺された主人公は可哀想な被害者で、批判を受けた警察署長は肩書きだけにのさばる悪代官、というような単純化された善悪の対立として描かれているわけでもありません。


主人公は物語が進むにつれ、被害者でありながら非常に過激な加害者にもなっていきます。

対する警察署長や部下も多様な顔を持ち、穏やかな優しさを見せるときもあれば、深い哀しみ、もしくは剥き出しの憎悪をさらけ出すときもあり、それぞれ互いに受けた憎しみを、さらなる怒りと憎しみでもってやり返す、理性を欠いた行動によって物語が転がっていくのです。

また、突発的な暴力、品性を疑うような差別意識がある人物が見られるのも大きな特徴です。


そのため鑑賞した観客のレビューには「誰にも感情移入できない」「なんのカタルシスも得られない」「そもそも犯人は誰なの」といった感想もちらほら見受けられました。


しかしこれは、ただ過激な暴力映画という括りでは決してなく、観る側の共感を生むような、登場人物の後悔や恥じらい、同情や優しさをも、とても丁寧に映している作品でもありました。



『スリー・ビルボード』には、表と裏といった二面性だけではない、もっともっと、まるっとそのまんま【人間】という生き物の複雑な絡み合いが深い奥行きをもって表現されています。



この世界に生きるわたしたちのリアルな人生において、張り巡らされた伏線が見事に回収されてキレイに幕を閉じることはきっとないし、
醜い感情を制御できず対象者に思い切り投げつけることもあれば、逆に涙が出るほど美しくて尊い瞬間が訪れることもある。

自分自身の善と悪の振り幅を完璧に理解している人は、この世に1人としていないはずです。

極端に相反する感情と曖昧な感情は限りなく掴みどころがなく、生きることはやりきれない、そうは思いませんか。




鑑賞後、奴さんとこの作品の素晴らしさについて2人でたくさん喋って分かち合いたいと思ったけれど、慎重に言葉を選ばないと込み上げた諸々の感情が陳腐なものに変わってしまう気がして、

それは奴さんも同じだったようで、ふだんは明快な話ぶりの奴さんにしては珍しくもごもごとした口調で、「……人間は単純じゃない、ってことだね」と小声で言いました。


「よかったね」「うん。観てよかったね」そんなことをぽつぽつ言い合いながら、どのように話せばこの感情を共有できるかと考えつつ、劇場を出ました。

そしてやっと、「あのね、映画を観ながらずっとユーモアってなんだろうと考えてたよ」と伝えました。

それからその晩、その話の続きをしました。






ユーモアを説明するのは難しい


公開前のレビューや映画評を読んでよく目にしたのは「フランシス・マクドーマンドは圧倒的なユーモアで、この複雑で難解な役を見事に体現した」というような言葉でした。

例えば、「彼女はとてもユーモアのある人だ」と誰かが言ったとして、その人についてどのような人柄を想像しますか。

深く考えずに、ひょうきんな人、愉快な人、周囲を笑顔にするのが上手な人、そんなイメージが漠然と浮かびませんか。


しかし、マクドーマンドは劇中、終始において仏頂面でした。

誰かを笑わせるような要素はまるでなかったし、むしろ彼女の行動にゾッとする場面も度々ありました。


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(劇中画像引用)


観客席にいた誰もが鑑賞のあいだ笑い声をあげることはなく、わたし自身もクスリとしたりニヤけたり、ということはなかったです。




では、ユーモアの定義とはなんだろうか。


ユーモアについてWikipediaを読んでみると[人を和ませるようなおかしみのこと]と冒頭に記載がありました。

けれどそのすぐあとに[そう述べたが実際にはユーモアの定義は困難である]と続きます。

Wikipediaのユーモアについての記述はかなりのボリュームで、非常に読み応えがあって興味深い内容だったので、時間があるときぜひ一読していただきたいです。


多くの哲学者や作家がユーモアの定義を試みた歴史があるようですが、《ユーモアとは○○である》と、簡潔に明確に定義付けることはできないようです。

また、ユーモアを含ませたつもりで発言しても、受け取る相手によってはそのユーモアが伝わっていなかったり、逆に不愉快にさせることもあると述べています。例えば、ブラックユーモアとか下ネタとか。




『スリー・ビルボード』では、かなり過激な暴力の描写が幾度もあり、一見、和むようなおかしみを感じることはできない気がします。


わたしの場合、映画でユーモアが感じられる作品と聞かれてすぐに思い浮かぶのは、コーエン兄弟、アキ・カウリスマキ、ジム・ジャームッシュ、エミール・クストリッツァなどの監督作品でしょうか。

しかしそれらとは趣きがまったく違います。



では『スリー・ビルボード』におけるユーモアとは何か。

そんなことをぼんやり考えながら鑑賞していたとき、ふと思い出したのが、フラナリー・オコナーの小説でした。






フラナリー・オコナーについて


オコナーはアメリカの女性作家で、難病を患いながら、主に米南部を背景に庶民の生活を書いた、短編小説の名手と言われている小説家です。

19か20歳のとき、ちくま文庫にハマった時期があり、初めに『賢い血』という長編を読んでオコナーに関心を持ちました。彼女の作品は興味を掻き立てられる面白いタイトルの短編ばかり並んでいます。

代表作『善人はなかなかいない』ほか、『高く昇って一点へ』『よみがえりの日』『障害者優先』『ゼラニウム』『人造黒人』『不意打ちの幸運』など。


のちに全短編集が筑摩書房から刊行された際、帯に書いてあったコピーが、彼女が書く小説の特徴をとても良く表現していると感じたのでした。

曰く、『暴力と殺人とユーモアと恩寵と』。


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暴力や殺人が、ユーモアや恩寵と等しく語られることは、ちょっと不可解な気がしませんか。


けれどまさにオコナーは、〈暴力〉〈殺人〉〈ユーモア〉〈恩寵〉を、"並列に"、深い洞察をもって書き綴った作家でした。



それらを"並列に綴る"ことは、当時のわたしにとって、非常に斬新なことだと思えました。どれかひとつを大袈裟に書くことも、強調して書くこともせず、すべて平坦に等しく記しているのです。


そのためエンタメ性はありません。山場もないので、盛り上がりに欠けるエキサイトできない小説だと思われがちかもしれません。


米南部を舞台に書いた小説が多いので、当時まだ色濃く残っていたであろう人種差別意識が根深い白人がよく登場します。

また、知性や品性があると思える登場人物は少なく、たまに高い学歴の人物も出てきますが、学歴を鼻にかけ、自分の家族ですら心の中で侮蔑しているような嫌な性格の人物だったりします。



そんな偏見や婉曲した考え方を持つ人々の軋轢の中で、唐突に暴力や殺人が起こります。

そして暴力に晒される中で、不意に恩寵が訪れることもあるのです。



いよいよ殺される、差し迫った場面で、当人はいたって真面目に、しかし第三者から見れば突飛に思える言葉が口をついて出てきたりします。


一切、面白可笑しく読者を笑わせようとして書かれているわけではないのに、それはひどく滑稽で、無性に人間という動物が哀しく、そして愛おしく感じられ、
なるほど、オコナーの小説には確かにユーモアが存在しています。




暴力とユーモアの並列、それを目の当たりにしたとき、わたしは映画鑑賞中、オコナーの小説を思い出し、さらにはユーモアについて、考えを巡らせていたのでした。






ラストで提示される極上のユーモア


さて後日、町山智浩さんの映画評を読んだ際、彼はこんなことを言っていました。警察署長が劇中で読んでいた本はフラナリー・オコナーの小説なんですよと。
それはまったく気がつきませんでした。

ということは、監督もオコナーを意識して『スリー・ビルボード』を撮ったことはまず間違いないのだと思います。




映画のラストはとても好きな終わり方でした。

未見の方のために詳しくは書きませんが、憎しみを募らせて真っ向から主人公と敵対する警察署長の部下(サム・ロックウェル)、彼と彼女その2人が車内でやり取りを交わすシーンです。


今までずっと怒りに身を任せて突き進んで、暴力と暴力でやり合ってこんな具合になっているけど、怒り続けるっていうのはなんだかひどく疲れるなぁ。
そんな雰囲気が2人からは漂っていました。


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(出典:IMDb)


もちろん憎しみが消えたわけではありません。
だけど、「ああ疲れた」というニュアンスを漂わせていることを互いが互いに感じ取っているようで、その疲労が、2人に不思議な連帯感を生み出していたのでした。



同じ目的を持って彼らは車内にいるわけなのですが、彼らは怒ることについて少しのあいだ、「休憩」します。

そして憎しみの処理についての判断を「先延ばし」にしたのです。



疲れてしまって怒ることを休憩し、憎しみの対処を先延ばしにするとは、その行為はなんとも人間臭く、彼らにとても親密な感情を覚えました。




いかにも、確かにわたしは、ラストのおかしみに和んでいたのでした。

紛れもなく、そこに極上のユーモアを見い出していました。




【ユーモア】 (引用元/Wikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%82%A2








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