今日という日に(在宅介護⑥;毒親)

概要
父と母は、父27、母20の時に結婚し、三男四女に恵まれた。

勤務医をしていた父だが、40代に開業した。
元々、酒の好きな父ではあったが、開業後は付き合いもあり益々飲む機会が増えた。

開業での変容
父に大きな変容はなかったが、
母は開業後、変わってしまった。

開業前は、
子供の手を繋ぎ、おんぶをし、抱っこをし、歌を歌い、笑い、怒り、子供のために汗水垂らしていたと記憶する。帰宅する頃に、母が家を留守にすることはなかった。

冷えたご飯と冷たい家
開業後には、准看護師である母は父の仕事の手伝いをしに仕事に行き、私達が学校から家に帰ると、家事手伝いをする人(知り合いに頼んでいた事もあり、家政婦と呼ぶと語弊があるため)が、大きな態度でハミングをしながら掃除をしたり食事作りをしていた。

以前は手作りだったオヤツも、既製品が机の上に置いてあると言う光景に変わった。冷めきった家庭だった。

私達は、その場に自分の居場所を見出す事はできなかった。小学生の時から夜9時過ぎまで外で時間を潰したり、部屋に引き篭もったりした。
そして、冷めたご飯を各々好きな時間に食べていた。

父と母は、仕事が終わるとスナックに飲みに行く日々だった。週末には、一緒に連れて行かれる時もあった。
化粧をし着飾り、酔っ払って他の男と踊る母。酒に酔った客が私達に酒を勧めたり、カラオケを勧めたりしてきた。守ってくれる大人はそこに存在しなかった。

その時、私は小学高学年、弟は低学年、その下の弟は幼稚園児だった。

姉たちや兄は中学生や高校生や予備校に行っており、干渉されず好きに過ごしていた。
私達は、親の言うがままされるがままだった。


私が記憶に強いのは、
父から可愛がられていた私は姉や兄から疎まれた。特にすぐ上の姉は明らかな嫌がらせや苛めをしてきた。

食事も同席させてもらえず、カウンターの片隅で一人で食べていた。その頃私はガリガリだった。その様子を見ていても母は私を庇うことはなかったし姉に注意したこともなかった。

私はこのエピソードを一生忘れないし恨んでいる。

他にも、弟二人にはブランドの洋服を何着も買い与え、私には好きな物を自分で買うように1ヶ月に1万円を渡されていた。
明らかに子供の順列を付けていた。

安心できない家
安定した家庭環境ではなかった。それなりに皆、反抗期があった覚えがある。
その時、父は口を閉ざし、母は知り合いに預けて更生を頼んだり、遠方の寮制予備校に入れたりした。臭いものに蓋をするように。
正面からぶつかるとか、子供達を分かろうとはしなかったように思う。

私は不要な子
私は大きな問題はなかったが、成績は普通で家族の中で出来が良くなかったので、親から相手にされることもなかった。なので家で会話をすることも少なく、外で恋愛や遊行に楽しみを見出した。

母は、それを察知してか、思春期の頃は部屋の掃除と言い日記を隠れて読んだり、探ってくるような聞き方をされたり…回りくどく干渉してきて嫌だった。それが嫌で嫌で堪らなかった。早く母から自由になりたかった。母から逃げたかった。

社会人になってすぐ、私は上手く適応できず、すぐに退職してしまった。父に頼んで実家のクリニックに雇ってもらうこととなった。そこには准看の姉が勤めていたし、弟も勤めていた。途中から弟の彼女も勤めるようになった。

家族に囲まれて仕事をするようになった。

こども側にも甘えはあったと思うし不適切な態度もあったと思う。ただ、父と母の態度も酷かった。親であり雇用主であった。
5年ほど勤めて、嫌気が差した。家族は辞められないので、雇われることを辞めた。
その時の母の言葉を私は一生忘れられない。
『あぁ〜いらんいらん、あんな子。』

母からの嫉妬
今思えば、父から疑うことのない愛情を注がれる私に、外で楽しんでいる私に、母は嫉妬していたのだと思う。羨ましくて仕方がなかったのだと思う。

毒親は連鎖するらしい。毒親の親も毒親なのだと言う。

でも、私にしてみれば、そんな事知ったこっちゃない。

そんな関係性が根底にあった上で、実家での在宅介護が始まったのだ。
母との共同生活は地獄への入口にも思えた。

続く


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