1章 ー 夏休み ー

 キーンコーンカーンコーン……

「ふぅ……おわったぁ……。」

 ほっと息をついて天井を見上げる。肩まで伸びた栗毛色のストレートヘアをさらりと揺らし、梛 美沙(なぎ みさ)は小柄な身体で伸びをした。

「かだい……あぁーーーっ!もうっ!!!」

 目の前の席で長身な少女が声を上げた。丸みを帯びた横長のメガネを外し、まゆ根をぎゅっと寄せて、坂本千尋もしなやかな伸びをする。整った顔立ちに、腰まである黒髪が印象的だ。

「ねー、千尋ちゃん、今日はこれからどうするの?」

 後ろの席から美沙がやわらかな声をかける。千尋は椅子に腰かけたまま身体をひねって快活に答える。

「あー?んー……とりあえず、今日のところは課題は忘れて遊ぶ!あとこの夏は剣道に汗を流す!!」

「ふーん、そっかぁ。」

 ちゃきちゃき千尋に、のんびり美沙。

 千尋が「課題がどうしてこうも多いのか」とプリントを見つつ、やり場なく憤慨している。

「特に、これ!」
「んー?……ああ、教会訪問ね。」

「そーだよ、どっかのキリスト教会に行ってぇ、牧師の説教聞いてぇ、レポート出せって!ミッション系、信じられねぇ……か弱い女子をどこぞの宗教団体に放り込むとか……。」

 既にミッション系の中学校に通っており、朝の礼拝など一通り経験しているはずの二人なのだが……。

「へぇー、そうなんだねー。」

 まるで他人事のように応答するのは、どうやら単に実感がわかないからのようだ。

 (それで、か弱い女子って、誰のことなんだろう……)

 そう真剣に考えてしまう美沙だった。

「ともかく!今日は景気良く遊ぶんだっ!美沙!アタシ最近新しくできたオサレなカフェに行ってみたい!どぉ?どぉ???」

 んーーー、どうしようかなー、とやや反応の鈍い相棒を説き伏せる。

 仙台市泉区にある聖生学園中学校から、紺のブレザー姿の生徒たちがぱらぱらと下校を始める。今日から1ヶ月弱、自由で忙しい日々が始まろうとしていた。


「だいたいさー、」
 千尋はつり革につかまり、バスのエンジン音に負けない音量で、頭一つ身長差のある美沙を見下ろしながら話しかける。中一ながら165cmもあるすらりとした千尋の長身は、同学年の男子にも負けていない。142cmと小柄な美沙は椅子の取っ手につかまって立ち、見下ろされることを別段気にした風でもない。学校から地下鉄駅まではバスで15分、入学してからすっかり見慣れてしまった景色が視界の隅を流れていく。

「教会って、何するところなわけ?」
「……ふむ?」

 4月に入学してキリスト教文化に触れ始めた美沙の頭では、考えてみたところで千尋と同程度だ。

「わかん、ない。」

 にこ、としながらゆっくりと答える。テンポが違う二人だが、なぜか千尋にはそれが心地よい。

「……ふーん。まあいいや。どっかテキトーに選んで、話聞いてレポート書けば、それでOKなんだろ?こんなの勢いで早めに終わらせちゃおうよー。」
「そうだね、うん。」

 特に予定があるわけでもないので、いつものように頷く美沙だった。


「聖生学園中学校」
 明治維新後に創設された歴史ある学園で、現在は幼稚園から大学までの一貫教育を行っている。創設当時、まだ女性の社会的地位が低く、女性が通える高等教育機関がほぼ皆無だった時代に、聖書に基づく女子の高等普通教育を行う学校としてプロテスタントの宣教師ジョシュア・フーストン師により設立された。数度の移転・拡張を経て、大学を除く全ての校舎が現在の泉キャンパスに集約されている。


*       *       *       *       *


 あわい緑色をした葉のオリーブの木が、カフェ入り口の左右に茂っている。白く塗った木製のドアを引いて入ると「チリンチリン……」とドアベルが鳴り、引き立てのコーヒー豆の香りが心地良く鼻をくすぐる。

「いらっしゃいませー。」

 ハンチング帽をかぶった青年が、さわやかな笑顔で迎えた。年は20代半ばといったところだろうか。白い壁と茶色の木の家具を基調とした北欧風カフェ「Chakko」はつい先月オープンしたばかりだ。

 美沙と千尋は窓際の二人掛けテーブルを選んだ。アンティークの椅子は座ると心地よくきしんだ。木の手触りがやさしかった。無駄なものを置かないアーティスティックでシンプルな店内は広くはなく、15人も入れば満席になってしまう。カウンターの向こうでオフホワイト色の7分袖を爽やかに着こなした青年がコーヒーを一杯ずつドリップしている。

「な?な?いい雰囲気だろー?」千尋がドヤ顔でニマニマしている。

「へぇー、落ち着くねぇ。」

 ほわぁ、とため息をついて店内を見渡しながら美沙が答える。

 アルバム風の手作りメニューを開くと、コーヒーや紅茶、フレッシュジュース、豆乳とごまのドリンク、ごまを使ったスイーツなどが写真入りで並んでいた。

 『うわあああああ』ステレオ再生よろしく、珍しく二人の息が合う。

「これやばい、かわいい!」
「フルーツジュース、おいしそうーーー。」
 きゃいきゃいきゃい。



「お待たせしました。」

 ふわりとした綿のワンピースを着たの女性が、飲み物を二人の前に置く。カラフルなコースターに置かれた、丸みのある大きめグラスに色鮮やかなドリンクが注がれていた。

「美沙はさぁ、好きな男子とかいるの?」

 片手でほおづえをつき、ストローを指でつつきながら、上目使いに千尋が尋ねた。

「んー?いないよー。」
「気になる人は?」
「……。」

 クラスの男子を思い出そうとするが、印象的な数人以外は顔が出てきても名前が思い出せない。元々そこまで社交的でない美沙は、男子と接する機会も授業や課題で一緒になった時だけ、という感じだった。

「男の子、なんか苦手で……。」
「そっか。」

 ハチミツにんじんジュースをストローで吸いながら、千尋が答える。

「アタシも、今のところいないなー。」

「千尋ちゃんは、昔から男子に人気あるよね。スタイルもいいし。」

「そおー?こんなに背がでっかくなって、おまけに剣道なんかやってるから、遠巻きに見てるヤツはいても近寄ってくるのはほとんどいないよ。」

「ふふっ。千尋ちゃんは男子よりもかっこいい。」

 冗談でもお世辞でもなく、美沙が目を細めて微笑む。

「確かに女子からラブレターもらったことはあるけどさ……。アタシはアタシより男らしい男子が絶対いい!」

 両手を組んで目が少女漫画になる千尋。

(……それじゃ結婚できないかも……)と思う美沙だったが、ニコニコしつつ口には出さなかった。


「ところでさ、ミッションスクールってもっとおカタい窮屈な場所かと思ったけど、意外と自由を尊重してくれるんだね。入学前にずいぶん母親と心配したんだけど、心配いらなかったな。」

 千尋がグラスの氷をころころと回しながら言った。

「うん、そうだね。私も、もっと厳格なのかと思ってたけど、わりと普通だね。」

 シナモンのきいたバナナ豆乳ドリンクをちび、ちび、と味わいながら美沙が答える。が、聖生学園が厳しくないわけでは決してない。明確な規律はもちろん敷かれており、毎朝の朝拝へ出席し聖書の朗読とメッセージを聞く事、一日の終わりに終拝と賛美歌朗唱などが義務づけられている。

 しかしそれにも増して、生徒の自発性や自由意思を最大限尊重する創立以来の精神と、形式よりも実質を重んじる柔軟なルールが生徒たちに開放的な雰囲気を提供し続けている。また生徒たちがそれほど窮屈に感じないのは、先生達自身がそれぞれ自分の生き様の一貫として、それらのルールを誠心誠意、自ら取り組んでいる延長上で全てがなされている事が大きいのだろう。

 先生たちは文字通り生徒たちの模範として日々を生きる努力を続けており、こじれた人間関係の問題解決に当たる先生の姿を見ながら生徒たちは生きる術や力を学び取っていた。先生が語る言葉は口先だけでないことを生徒たちは肌で感じ取っており、学園生活には生き生きとした躍動感があった。「他者を尊重する」「自分がしてほしいように他者にもする」「先生を尊敬し見習う」という大枠だけ示し、後は自ら考えさせるルールも独特だった。最後のルールは見習われる先生方が最も生き方を問われるため大変なのだが、それこそがこの聖生学園の質を大きく高めている理由の一つだ。

「外側を繕うのでなく、内側から変えられてこそ真に人に影響を与える人間になれるのです。」

 そう提唱した創始者ジョシュア・フーストン師自らその生き方を実践し、新規で採用する先生達にもキリストの弟子であることを採用条件に掲げ、ことごとくそれらの高い水準を要求してきた。要求しただけでなく、フーストン師自身が先生たちの様子を気にかけ、家に招き、共に時間を過ごし、自分の生き方を見せ、分かち合うための時間を惜しまなかった。教師間でいさかいや食い違いが生じたときは、学長自ら場に同席し、上から裁定するでもなく、かといって巻き込まれるでもなく、教師たちと共に悩み、寄り添い、折にかなって聖書の教えを引用しながら、互いに赦し合い受け入れ合うこと、問題解決以上に関係を大切にする生き方を、身をもって説き続けた。

 聖生学園に足を踏み入れたことのある者は、皆口をそろえたように言う。「あそこは不思議な雰囲気が流れている。安心して自分らしくいることができる」と。もちろん、いじめや問題が無いわけではないが、それでも聖生学園の成績の良さや問題件数の少なさは、統計を見ても明らかに群を抜いていた。


「なんだか聖書って、もっと清く正しくおカタいものかと思ってた。みんな、アタシたちの生活や日常に関係あることばっかりなんだな。」

「うん、対人関係の持ち方とか、生きる姿勢、感謝することの大切さ。みんな今の私たちに役立つことばっかりだね。」
「ま、あとはどれだけ生活の中でできるか、だなー。」

 実際、聖書にはそのような事も書かれてあるには、ある。しかし、それだけではない。歴史書や詩歌、系図、格言集、預言書、イエス・キリストとその弟子たちの言行録、使徒たちの手紙など多岐に渡り、普通の中学生がそのまま読んで理解できる所と、解説なしではとても理解できない所との両方がある。

 それでも美沙たちが聖書を身近に感じられているのは、先生方が生活の中で実際に実践して、生き方として汲み取ってきた聖書の教えを、自分の体験も交えて生徒たちに分かりやすく伝えているからなのだ。子どもたちが安心してのびのび生きられる環境の背後には、大人たちの絶え間ない苦労が必ずあるものである。

「教会……どんなところなんだろなぁ。『天使にラブソングを』みたいな、楽しいところだといいなぁー。」

 ぽーーっと上の方を見ながら、美沙がようやくドリンクを飲み終えた。

「さあなー。でもやっぱり、アタシらの学校みたいに、すてきな大人がたくさんいる所なのかなあ。」

 千尋もほおづえをついて窓の外を見ながら言う。

「そうだといいね。」

 グラスを両手で抱えたまま、美沙がうなづく。窓の向こうに、遠くを飛ぶ鳩の群れが見えた。


*       *       *       *       *


「ただいまー。」
「おかえりなさーい。美沙、今日はどうだったの?」

 母がリビングからパタパタと出てきて美沙を迎えた。

「えーとね、最後の日だったから、夏休みの過ごし方とかの説明が簡単にあって、解散、みたいな感じ。」

「通信簿は?」
「まあまあ、だったよ。」

 ニコニコしながら美沙が差し出す。

「どれどれー?……あらぁーー、ほんとーーーに……まあまあ、ねぇ……。」

 あきれつつもどこか明るい声の母・美智子の目には、3の行列が映っていた。

「えへへ。」

 頭をかきながら美沙が困ったように笑う。

「……誰に似たのかしら……。」

 元中学校教師だった美智子には満足いくものではないようだが、かと言ってそれで咎めるわけでもないのは、美智子の楽天的な性格のせいだった。

「あのねお母さん、課題に『教会訪問』ってあったんだよ。……どうしたらいいのかな?」

「へぇ、さすがミッション系ねぇ。何か手土産でも持って行った方がいいのかしら……。」

 頬に手を当てつつ、母親らしい気遣いに頭を回す。

「ううん、そういうのはいらないって言ってた。日曜日の午前中に行って、牧師さんのお話を聞いてレポートを出しなさいって。」

「ふーん、そういうものなのかしらね。あ、お昼にチャーハンできてるわよ。」

「わ♪」


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