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「判る」という言葉の恐ろしさ

人を励ますのが
何より、苦手だ。

「頑張って」
「判るわ」

それは間違いなく
本心から発せられた言葉なのに

判っていても
言葉が、鬱陶しく思える。
言葉が、滑っていく。
そんな時が、人には、ある。

「判る」という言葉の恐ろしさを知っていれば。

「判らない」ということから始まっていく想いもある。

だから
わたくしは
「励ます」という行為が
とても、苦手。

何より、
どんなに苦しくても
『自分自身が乗り越えていくしかない』という
その厳然たる事実は、変えようもない。

だから、苦しい。
だから、つらい。

流されるにしろ
立ち向かうにしろ。
立ち尽くすにしろ。

だけれど思い返せば
そう
わたくしは、励まされてきたのだ。

あの時。
あの頃。

確かに。

わたくしが受け取ったのは
「頑張って」でも
「判るわ」でもなかった。

「貴方を心配しているわ。」

それが
「わたくしが」貴方を心配しているわ。

いつの間にか「わたくし」が強くなってしまう
そんな罠。

その罠に、はまるべくもなく
わたくしに差し出されたのは、届けられたのは、

「笑い」。

全ての根底に。

代わること等、出来ない。
変わることは、できる。

貴方の苦しみは、貴方だけのもの。
わたくしの苦しみは、わたくしだけのもの。

だからこそ
貴方の側に、確かな
「ユーモア」と「笑い」がありますように。

人を励ますのが、苦手なわたくしは
そう祈っている。

そして、その笑いの数こそが
耐性に繋がるのだな、なんてことも、ちょっぴり考えている。


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