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バングラデシュ大規模テロ

☡このnoteは、ただの大学生のログであり、
私個人の見解です。
This note is my own view,Thanks.


初めてのバングラデシュ

「知り合いが要るのなら、
ここで電話を掛けなさい」


親日と聞いて穏やかなイミグレを期待していた私とは裏腹に、若い日本人女性がバングラデシュに滞在すると聞いて保安官も眉をひそめる。


「親は何をしているのか、
どこへ行くのか、証明しなさい」

と言われ、

「Wifiが無いし誰とも連絡が取れない、
あなたが連絡取ってくれる?」

と返し、30分言い合いをすると、
しかめっ面で「オッケー」と言い
私にしぶしぶvisaを渡す。

旅程表,滞在先,パスポートのコピーも
全て持っていかれて、
インドのイミグレよりしつこい質問に
早々にこの国に嫌悪感を持ったのを覚えてる。



それでも、ずっと足を踏み入れてみたかった
”バングラデシュ”という地。

人口密度は世界有数ながらも
自然は豊かで、大地の多くがデルタ地帯に属し
食料自給率は100%を超える。

イスラム教の文化が根付き、南アジアの中でも
社会規範,慣習がまるで違うこの国。

そして私は、日本人とベンガル人が
共同運営するNGOの孤児院にて、

子ども達への”情操教育”を目的に
孤児院初の日本人ボランティアとして
中長期滞在することになった。

もはや遊んでもらってた図

(このnoteは私の活動ログよりも、バングラデシュで起きた大規模デモについて書こうと思う)


〇歴史的瞬間であるこの国の大転機



1971年にバングラデシュという国が建国し、
53年が経過。

そして2009年から現在までハシナ政権が
国を台頭し、15年間の強権政治が続いた。


_____2024年7月18日 木曜日 朝7:00

「外部との連絡が全く取れない、」

私があくびを噛み殺しながら行う
早朝ラジオ体操の後にスタッフがそう言った。

4Gネットワーク,Wifiも政府によって
全てシャットダウン
され、
外部との接触や情報が全く届かなくなった。

ネットに拡散された画像


政府がメディア対策として、
この行動に踏み切ったのはバングラデシュの
首都 ダッカで大規模なデモが起こったからだ。


このデモはダッカ大学やBRAC大学等
有名大学の生徒を中心として扇動され、

”Quota System”
(今回は公務員採用時特別枠)

に対して廃止を促すデモだった。

7/6 首相官邸前の様子

実はこの運動は、
だいぶ前から各地で始まっていた。
(2018年にも同様の内容のデモが起きてた)

そして、この肝心の公務員採用特別枠とは、
バングラデシュの独立戦争下で

国に貢献した人々を
優先的に公務員として採用する制度を指す。

具体的には、政府の公務員採用枠を30%を
独立戦争志願兵だった家族に割り当てる
というシステムだった。


それでもコロナ過を経て、経済成長が滞った中で、急増する若者の失業率を見てとると、


安全保障が脆弱なバングラ社会で、
全てが保証された公務員という地位は、
歴史的背景に左右されず、個人が努力して
手に入れるべき職業だ
と叫ばれた。

〇バングラデシュの歴史

バングラデシュは
建国53年と南アジアでは最も若い国。

1947年、インドがイギリスによる
長い植民地時代に終止符を打ち、

それに次いでパキスタンも
インドから独立を果たした。

パキスタンが独立後、国を統治する段階で

インドを挟んだ西パキスタン(現パキスタン)と
東パキスタン(現バングラデシュ)の間で、

異なる文化,言語背景により
西と東で内部分裂が起きた。


そして1971年、両国の戦争を経て、
東パキスタンはバングラデシュとして
独立を果たした。(これが53年前の出来事)

つまり最近の出来事として
戦争は認識されており、
バングラデシュ自体、国としての歴史が浅い。

すなわち''誰もが認める歴史が存在しない''

現に政権が変わる毎に、お札が変わったりする。

〇学生が武器を持つ

『私は誰だ、お前は誰だ』

ダッカ大学の記念碑で叫ばれたスローガン

そう叫びながら、学生がハシナ政権に対して、
ファシズムへの反対声明としてデモを続けた。


そもそも

元々起こっていた運動に対して
何故突然火がつき暴徒と化したのか。

それはハシナ首相がこの学生運動に対して
TVでこう苦言したのがきっかけとなった。

『この制度を変えるつもりは無い。
たとえこの制度を撤廃しても、ラジャカル
(反逆者)が公務員の枠を取るだけだ』

ラジャカルとはパキスタン兵の裏切り者の意味。

ベンガル人にとって最も卑劣な言葉であり
最大級の侮辱を指す言葉だった。

これを受けた学生たちは自分たちを反逆者扱い
され、差別を受けたと感じ、暴徒化した。

〜デモの動き〜

7/15 Quota運動が激化
7/16 無抵抗な学生 数名が軍によって射殺
7/21 公務員優遇枠の30% ▶︎ 5% に縮小

8/5   ハシナ首相は責任問題に追われ失脚。

このあまりに早すぎる失脚に、私は驚いた。

ハシナ政権は独裁的だったものの、
教育制度に力を入れ、国全体の識字率にも寄与し多国籍企業を誘致し、バングラデシュの
経済成長にも貢献した功績が残っていたからだ。


功績を残していたにも関わらず
言論・表現の自由を市民は希求し続けていた。

現在は再選で、海外の知名度も高い経済学者の
モハマド・ユヌス氏が首相に即位している。

〇300人以上の未来への犠牲

7/25 私がお世話になっていた日本に居る
ベンガル人からWhats upでメッセージが届いた

あの時と、全く同じ。独立戦争時と似ている。
ゆうちゃん、どうか無事でいて。

私がインドへ避難した後に、通信が回復し
このメッセージを聞くことになった。

今回のデモの死者数は650名にも上り、
そのうち60名はまだ子供だった。

今回の暴動に巻き込まれ、
入院した子供は300名を超えて、精神的な
トラウマが今後表面化していくと指摘された。

歴史的変革の代償としては、
あまりに大きいと感じる。


その一方で、私は現地で、
集団心理によるデモの脅威を感じていた。

はたして日本でこのようなデモが起きても、
被害はこれ程になるだろうか、


デモ中、どこの政党を支持するかで国が二分され

ハシナ政権を支持したTV局は過激派によって
ビルごと1Fから7Fまで焼き討たれた。


さらに過激派暴徒が少数民族やヒンドゥー教を
弾圧したという報道もあった。

ベンガル人の正義を掲げたヒロイズムが
高揚感に満ち、過激化
していくのを垣間見た。

〇希望はあるのか

今回のデモの特徴として、

''学生''が強権政治に対して強い抑止力になった

ということだった。


デモの大半が人口のボリューム層、
すなわちこれから国の産業人口になる年齢層が
起こしたもので、

政治に対する今後の支持は厚く、
これから自分たちが国をリードしていこう
という気概を感じる。

実際、ハシナ政権転覆後は警察が機能不全に陥り
市民と警察の溝が一時は深まった。

それでも学生が主導になり交通整備を行う等
ボランティア活動が活発になった。

交通整備を行う学生

激化したデモによる
治安も徐々に回復傾向にあった。

現在モハマド・ユヌス氏が即位したが、

大臣クラスの官僚にはデモの影響を受けて
今後若者が官僚クラスの役割を
担っていくことが期待されている。


最後に、

私自身、バングラデシュに居た期間は本当に短く
まだこの国について何も知らない。

ただ短期間でも、彼らの人懐っこさ、

特に外国人への興味関心は
他の国を郡に抜いていたと思う。


残念ながらバングラデシュ滞在は
打ち切られてしまったけれど、

また必ずSFHの子供たちに会いたいし、
バングラデシュ国内を旅してみたいな。


ここまで読んでくださった方々に感謝を込めて
バングラデシュ独立戦争時の掛け声を。


''Joy Bangla!''

ゆう

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