見出し画像

論理的がなんか嫌い

その人の体験談に基づいた言葉、その人が純粋に感じた正直な言葉というのはどうしてかわからないが、なんかスッと入ってくるなと思うことがあった。


〇〇さんは話が下手やな。
どうしてか、うまく説明できない。

論理的に説明しなさい。
それは論理的ではなくて説得力に欠ける

こう言われると、論理的に話すことは良いことであり、論理的に話すことは正しいことであり、論理的に話す人は話が上手い人なのかと私は思ってしまう。

だからこそ、話が上手い人になれるように少しでも論理的に話そうとする自分がいる。

論理的というのは、よくわからんけどなにか根拠があったりして、その言葉が正しいものであるように感じる。

そのため、論理的に言う人は頭が良い、頭の回転が早いという印象を私は持つ。

論理的に言われると、納得してしまい付け入る隙がない。

だからこそ、頭が良い、頭の回転が早いという印象を持つのだろうか。

よくよく考えると、納得しているから付け入る隙がないというよりは、相手の話を聞いて考えるのがめんどくさくなって何もコメントができない。
そして、自分は何もコメントできないから、とりあえずこの人は自分よりすごいことを考えているから頭の良い人だろうと思うのだろう。

本題まで長くなったけど、結局何が言いたいのかというと
論理的に喋っている自分(相手)は私(その人)なのだろうかということである。

けっこう個人的な話だけど、大学を卒業するまでに私は大谷派教師資格という住職になるための資格を取った。

その資格を取るために、一週間の研修会があった。

差別問題とかを考えたけれど、

うまくは言えないけど、資格を持つものとしての立場から考えているなと思ったのである。

人それぞれ立場がある。

先生の立場、親の立場、会社の上司の立場、兄弟の立場、友達の立場

私の場合、今回は住職としての立場から考えたけど、住職としての立場から考えた言葉であって、喋っている私は本当の私ではない、私の身から出た言葉ではないなと思ったのである。

こういう立場だから仕方がないとか、〇〇の立場から言わせるととかの

立場とはいったい誰のことなのだろう。

立場と言った瞬間に、その人はいない気がするし、その人の言葉じゃないように思う

話を研修会に戻すけど、
班の中の話し合い、語り合いみたいな時間は
不思議なことに言葉の沈黙が苦でなかった。

相手の話が途中で止まって沈黙しても、苦というか早く喋ってよとか気まずいとか一切感じなかったのである。

沈黙とか、ひねり出そうとしている姿勢、 緊張とかそれすらも不思議な感覚だけどまるで言葉みたいだったのである。

なんだかそのほうが、その人自身から出た言葉であって、その人と喋れてる気がする。その人と繋がれてる気がして、不思議と心地よかった。


討論とか論破とか論理的とか、なんだかその人の身から出た言葉じゃないし、喋っているのはいったい誰の言葉なのだろうと感じるからなんか嫌い

その人と喋れてない気がする

沈黙とか、ひねり出そうとしている姿勢、 緊張とかがのほうが不思議とその人と喋れてる気がして、その人と繋がれてる気がして、心地よかったならば


もしかすると、うまく言えなくてもいいんだと思う。



後書き

うまくは言えないけどを連発するのは、考えるのを諦めてる感じがするから良くないのかもしれないけど、一周回ってそれでも良い気がしてきた笑

うまくは言えないが、1日中眠いしやる気でないや笑


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?