渡る世間は糞ばかり

 ヒロユキは小学校六年生にしては小柄で、手足は細く、冬でも半ズボン。鼻を排水口のようにすすりながら、ボロアパートの一室に入っていった。
 焼肉のタレと、黴と、庶民的というには下層すぎる香りで充満している。ヒロユキの鼻はバカになっているので、気にせず地面に吐き捨てられたガムのような靴を脱ぎ、台所でランドセルを降ろした。捨てる寸前の石鹸のような冷蔵庫から麦茶の入ったポットをだして、白みがかったコップに注いだ。
 その時。隣の寝室から母親の喘ぎ声が響き渡った。高音に伸びがあり、暫くスタッカートして、弾けては伸びる。ヒロユキは気にせず麦茶を飲み干し、シンクでコップをしっかり洗って棚に戻した。
「おう。ヒロユキか。お前のママとお楽しみ中だから、しばらく出ていけ」
 中肉中背で、下品で病気の犬のような黄金の短髪で、ワイルドというより不潔な口ひげのオッサンが立っていた。トランクスは、ほんのりこんもりしている。ヒロユキが何か言いたげな顔をして、何も言わず、玄関に向かって一歩目を踏み出したところで、オッサンの蹴りが腹部にめり込んだ。
 苦痛に顔を歪めて、膝をつくヒロユキに、唾をかけるオッサン。
「辛気臭い顔面さらしてなんか文句あんのか、舐めてんじゃねぇぞ」
 夕暮れの赤い陽が差し込む室内。その様子を全裸の母親が、ドアの隙間から見ていた。ヒロユキは目があったが、両方とも死んでいた。
 無言で立ち上がり、吐き捨てられたガムのような靴を履く。その後ろで聞き取れないノイズな暴言が、モノラルで突き刺さる。母親はオッサンの手をひく。『お楽しみ』の声と音が再開される。
 ヒロユキは静かにドアを開け、鍵を閉めた。
 
 あたりは真っ暗になっていた。どこまでもどんより流れる墨色の雲と、夜の始まり、そのすえた香りが鼻孔を刺激した。慣れた足取りで住宅街を抜けて、いつもの公園のベンチに座った。
 ため息と同時に、腹の虫が鳴った。仕方なく、常用している水飲みで水分補給。しかし空腹は収まらない。
 その時。前方から作業着の男がヒロユキを通り過ぎ、公衆便所に入っていった。小用から戻ってくると、調度、腹の虫が鳴る。
「なんだ。腹減りか、少年よ。どうした、もう暗いぞ。早く家に帰れ」
 目を泳がせ、何も言えないヒロユキに作業着の男が言った。
「しょうがねぇな。よし、アレに乗れ」
 指さす先に、トラックがあった。何かしらの機材が荷台に積まれており、全体的に年季の入った印象だった。作業着の男と共にトラックに乗り込むヒロユキ。
「ラーメンでいいだろ。調度行きつけの店が近くにある」
 無言で頷くヒロユキの頭を荒々しくなでる作業着の男。
「お前、名前はなんていうんだ」
「ヒロユキ」
「ヒロ坊だな。俺は高橋秀幸ってんだ。秀おじさんでいいぞ」
 トラックが走りだし、幹線道路に出て直ぐ、広い駐車場をもつラーメン屋に到着した。看板は色あせていたが、店内は小ぎれいでいい意味で庶民的、カウンターと小上がり、初老の店主が鍋を振るっては、麺を湯切り、二十代の女性店員が注文をとっていた。
「チャーシュー麵とウーロン茶で」作業着の男はヒロユキを見て、「なんでも頼んでいいぞ」と言った。
「僕もチャーシュー麵」
 9分後。ヒロユキの前にチャーシュー麵が提供された。分厚いチャーシューがどんぶり覆い、メンマやほうれん草、ナルトが散りばめられたボリュームのある一杯。美味しそうな湯気が立ち昇る。
 夢中になって、汁を迸らせながら喰うヒロユキの姿を、ニコニコしながら見ている作業着の男。
 ヒロユキは久しぶりのマトモな夕食に、つい笑顔になった。
「いい喰いっぷりだな。奢ったかいがあるよ」
「おいしい。ありがとう、秀おじさん」
「おうヒロ坊。ここの杏仁豆腐美味いぞ、食うか?」
「うん」
 ヒロユキは夢見心地だった。父親の記憶はなかったが、もし、そんな気の利いた存在がいたらこんな感じかと、幸せな気分。

 ヒロユキはいつもの公園のベンチで、自分の腹の虫で目覚めた。真っ暗な住宅街をとぼとぼ歩く。自宅のボロアパートにつくと、電気は消えている。
 鍵を開けて、中へ入り電気をつけると、誰もいない。
 しんとした台所のテーブルの上、シケモクが積もった灰皿と、飲みかけのお茶のペットボトル、空のティッシュの箱。
 そんな雑多で薄汚れたなかに、ティッシュに包まれた五百円玉があった。それを握りしめて、また、外へ出かける。
 住宅街なので、カレーか、ハンバーグか夕食のいい香りが鼻孔を掠める。
「どうして お腹が 減るのかな けんかを すると 減るのかな なかよし してても 減るもんな かあちゃん かあちゃん お腹と背中が くっつくぞ、、、」
 ヒロユキは腹の無視をぐーぐー言わせながら、歩いて行った。

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