ボリュームゾーンから声を出す

 物は言いようとはこれしかり。
 そのひとことで長年鬱屈していた重しが取り除かれた。

 Noteを書き始めた今年2024年の1月、最初にとりあげたのはその重しのことだった。いま読み返すと、そこまで卑下しなくてもよかろうにと思うのだが、いたしかたない。生まれ育った社会の価値観というのはおそろしいほどに内面化され、なかなか逃れることができない。学習はできる。しかし、それがそのまま自分自身に向けけての声とならないのがつらいところだ。
 
 つまり、「〇〇すべき」という価値観は、時代の、社会の「常識」であって、いつでもどこでもだれにでも「よし」とされるものではない。それらを学習することで、適齢期なる言葉もなりをひそめ、そのための肩たたきはあってはいけないとされる現在《いま》がある。
 ここらで「何を言っているの?」という諸氏もおられるだろうから私自身の経験を通して説明をしておこう。

 男女雇用均等法が施行された少しあとの職場ではあったが、人びとの心情はまだまだ追いついていなかった。クリスマスケーキとも呼ばれた女性の結婚適齢期は25歳だった。それを過ぎるとどちらも売れない。売れ残った女性たちは、肩をたたかれ、もう君の席はないよと暗黙の了解でささやかれる。四大卒の女子の就職口が限られていたのはそういうことから来ていた。新卒で入社しても3年の寿命しかないのだから。一方で短大女子がもてはやされたのも同じ理由からだ。商社の面接では「嫁さんにしたいタイブ」が採用されるなどという噂も立った。女性は25歳までに結婚することを強いられ、その先は専業主婦になることが求められていた。もちろん生涯働き続ける女性がいなかったわけではない。が、だんぜん、モデルが少なかった。寿退社は憧れの的だった。

 ありえない。

 そう、いま思えばありえない考えだし、男女平等という言葉はすでに手垢がつくくらい人々の意識には浸透していたにも拘らず、実態はそんなものである。しかし長年の、個人・組織・社会の学習によって、そういうことはしてはいけないという共通の理解を得ることはできた。まだまだ足りないことだらけだが、この稿はそれが主題ではないので先を急ぐ。

 他人《ひと》に対して言ってはいけない、やってはいけないことというのは学習の結果のりこえられるものが増えてはいても、一番手ごわいのは、自分自身に対しての見方がそう簡単には変わらないということではなかろうか。
 
 私は他人を色眼鏡で見ないタイプの人間だと思っている。職業差別もしないし肩書でびびったりもしない。それは、旅をし、居を移り、職場を変え、子育てを通して付き合う人も含め、かなりバックグランドの異なる人たちに出会ってきたという人生経験に由来する。
 「長《ちょう》」が付く人で大したことない人は山ほど見て来たし、お金や地位がなくとも精神貴族のような人にも出会っている。そして、そのまんまな人たちにも。いわく、リーダーという名にふさわしい人、田舎者めと悪口を言いたくなる人。ようは「個」人である。そのような当り前の事実を頭の中だけのことではなく目の前にいる人間との関わりから会得してきた。
 だから、その人を出自や地位だけで崇めたり、逆に蔑んだりすることの愚かさを知っている。

 えらく自信たっぷりに言い切っているじゃあーりませんかー。

 ああ、なのに、それなのに。何故、私はわたし自身に対して、そういう目で「客観的」に見てオーケーを出してあげることができないのだろうか。
 それは、いやだいやだと言いながら、まだまだ世の常識にとらわれているからにほかならない。

 プロフェッショナルとよべる「仕事」がないこと、ひとつのことに取り組み、こつこつと積み上げてきたものがないこと。それらが「ある」ことが望ましいと思われる社会ではかなりつらい現実。
 だからといって、いわゆる「自己肯定感」が低いわけではない。おもしろい奴だなーと自己認識しているし、周囲からも「自分のこと大好きだよね」と羨ましがられるというより呆れられるに近いかもしれないが、たびたび言われてきた。

 ところが、ところがだ。人生半ばを過ぎ、若いころ夢見るユメコちゃんやユメオくんだった仲間たちがどんどこ「成果」を上げていき、「いつか」なんて言っている「いつか」は永遠にやってこないというリアリティにようやく恐れおののく域に入った。
 ある種の「天才」と呼べる人だったり、「努力」の塊で名を成す人だったりが身近に多かったがために、私には無理とハナからそこへ足を踏み入れなかったのだから当然の結果ではある。
 そして一方で、「成功と幸福は違う。それをごっちゃにすることから不幸が始まる」と口にしていた父の言葉に大いに頷きながら、これまで“幸福”への道を探り生きてきた。そのときどきで手に入れもした。それをよしとしてきた。はずだった。

 が、ここにきて、足を踏み入れたくなった。「書いたり」「しゃべったり」することで人とつながりたいと心から願うようになった。自分には才能も経験も実現させる資金もなにもかもが足りない。身近に、芸能の分野で父が、映像メディアの世界で長兄が、法曹や市民運動の領域から次兄が、各々非凡な才を発揮し、どんどこ良い「仕事」をしてきたのを傍目に見ている。必然、彼らの周りにもそうした人たちが集まる。

 翻ってわたしは学生時代の勉強もそこそこ、パートタイム仕事での実績や待遇もそこそこ、好奇心だけは旺盛に旅や趣味や市民運動や、やたらと首だけはつっこんできたが、そのなかでの立ち位置もそこそこーそう、そこそこにはできるが突出した何かが備わっているわけではなかった。
 飽きずに辛抱して何かひとつやり続けていればいまごろは……という言い訳は、そもそも突出した何かを持つ人は口にしない。だけれど、私はくさって心のなかでそうつぶやくこともある。

 あー、うんざり。

 というのが凡人のつぶやき。

 それを「コペルニクス的転回」という使い古された表現をここぞとばかりに使いたくなるような言葉が投げ込まれた。
 うんざりせずに耳を傾けてくれたある人が、私は「ボリュームゾーン」の人間なのだと教えてくれたのだ。それは、社会の中流とか、その他大勢という言い方とは違って、なにかと比較し指す言葉ではなく、事実として明らかにされた感覚を伴い、すーっと身体に入り込んできた。

 そうか、私はボリュームゾーンの人間なんだ。社会のなかで一番層が厚いなかの一人なんだ。
 そして、ボリュームゾーンにいながら、その界隈の人たちの金銭的、心理的誤差についても熟知しているし、考え方そのものはゾーン外にいるという自負がある。
 なんと! 生まれ直さなければ無理だと自己嫌悪に陥る必要がなくなったではないか。

 ボリュームゾーンにいる私だからこそ出せる声がある。届けたい人たちがいる。「そこそこ」は卑下する言葉ではなく、「そこにいる、あそこにもある」と、「ここ・そこ」を見つめる愛にもつながる。
 物は言いよう、考えよう、ありがたい言葉を噛みしめた。

 

 

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