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嘘 | 掌編小説

140字からはじめて―


あまり人の通らない暗がりの廊下では空調の音が一際大きい。それは、耳を塞ぐと聞こえる低くて鈍い音、生命の躍動であり僕らが生きている証、そんな音に似ている。
あれが血液の流れる音ではなくて、筋肉の活動する音なんだと、そう教えられたあの日はそれほど前のことではない。

でも、男の汗の匂いと、片方だけの靴下と、干したままで誰も片付けないパンツと、食べかけで放置されているなんか気持ち悪い色の粥と、
そんなことをむさ苦しいと思わなくなるくらいには前のことだ。

訓練を終えた僕は、泥まみれ、汗まみれ、所々赤黒い滲みまで見える汚い服を着替えることもなく、ガタガタのぼろいベッドに飛び込んだ。
「あーーーー」っと雄叫びを上げると、ゲタゲタ笑う声に続いて、バタバタと皆がのしかかってきた。

重い、痛い、臭い。でも嫌いじゃない。
二十年にも満たない僕の人生において、僕はそんな日々を『嘘』と呼んでいる。

 

生まれたとき、父親はもういなかった。母親には十歳のときに死なれた。おじさんには毎日罵られ、唾を吐かれ、殴られた。

ある日僕は家を飛び出した。一面枯れかけの草しかない土地で、何日も、何週間も、一人で過ごした。
そうしていると、僕は人である感覚を失いはじめた。だから毎日、寝るときは耳に手を当て、僕の音を聞いた。命の音を聞きながら、僕が『本物』であることを確かめた。


空調の音。

「怖い?」
僕が顔を右に向けると、僕よりも少し背の高い彼は尋ねる。
「ううん」

僕がそう答えると彼は笑みを浮かべる。彼もまた、『本物』だ。
真新しい軍服を着て、少し緊張した面持ちで、誰ともすれ違わない廊下を列になって歩く僕ら。みんな『本物』だ。 

帰る家も、明日の命も、互いを離れれば消えてなくなる。

 

衣擦れの音を立て、互いの熱を感じて廊下を歩く僕ら、「Z班」。
それは『嘘』。

手榴弾で芋を焼いたり、トイレブラシで剣闘士ごっこをしたり、上官の食事に虫を混ぜたりした僕ら。
それは『嘘』。

押しあったり引き合ったりしながら訓練場を走り回り、機体の掃除をしたり、ちょっと射撃が上手くて褒められたりした僕ら。
それは『嘘』。

泣いて笑って孤独を埋め、『本物』なら思いつきもしないことをする僕ら。
それは『嘘』。

 

もう空調の音はしない。冷たいコンクリートの床。澄み渡った夜空。
僕らは視線を交わし、輪になって座る。
盗んできた備品の懐中電灯を中央において、身体に悪い自作の酒を水筒の蓋に注ぎ合う。

「なぁ、あれやろうぜ」

嘘を語ろう。とびきりの嘘を。
本物なんか捨ててしまって。

「俺たちはさ、幸せだよな。嘘のまま死ねるんだ」 

一人が言う。

明日には散る命。みんな一緒だ。
沢山の『本物』のために、『嘘』の僕らは死んでいく。そうしてきっと、未来はもっと『嘘』になると良い。

「ねぇ、耳に手を当てて」

僕は言う。

「何が聞こえる?」

「本物」

すると一人が笑い出す。みんなが笑う。『嘘』が聞こえる。

 

彼と目が合う。怖いかと尋ねてきた彼。
きっと『本物』は怖がっている。嘘にまみれているくせに、もうほとんど見えていないのに。

「俺たちの嘘に乾杯」

僕は酒を流し込む。苦い。ちょっと気が遠くなる。『本物』がもうやめろって訴えている。
少し愛おしい。僕の『本物』。

『嘘』に愛された『本物』は明日死ぬ。


これが僕の、『本物』で『嘘』の物語。


とびきりの嘘をつこう、と話あった夜。ありもしない思い出をでっち上げ、笑い溢れる馬鹿話が積み重ねられていく。皆の嘘は楽しくて、ひどく愛おしい。
嘘つきは泥棒の始まり、なんて言うけれど。
嘘つき。確かに、僕らは嘘つきだけど。
例え、嘘でも、それらは僕らの。
大切な愛する『本物』の物語だ。
志賀暁子『本物の「嘘」を語る夜』

火樹銀花(Twitter)にて定期更新中、メンバーから送られる140字小説を10倍にして返すプロジェクト。
初回の作品は、志賀暁子(note)より『本物の「嘘」を語る夜』。


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