見出し画像

脳みそ食わせろ

頭の良い人は好きだ。すごく好きだ。別に込み入った表現でも、凝った表現でも、特段オシャレな言い回しでもないのに、彼らは突然面白い一言をぶちかましてきたりする。至極単純なことのようで、考えもしなかったことをポロッと述べたりする。何の気なしに。私が「えぇ!?」という顔をすると、むしろ彼らがその反応を見て驚く。「じゃあ君はどう思う?」と問われて、私が話しをする間、彼らは真剣な瞳を煌々と輝かせ、思索にふける。

そして私は思うのだ。ちょっとその脳みそ食わせろ、と。

実際に言ったことがある。そしたら、
「あはは、面白いこと言うね。他人の考えていることに対して、とっても素直で熱心な思いがそのまま現れているみたい」だってさ。

ほら。君はその発言に至るまでに何を考えた? 私に返答するまでのその一瞬、ピカピカと明かりを反射するその瞳の奥では、どんな言葉が、イメージが、感情が行き来したの?

あなたの頭の中で繰り広げられているその全てを、私にもくれないかと、そう思わずにはいられない。それは、未知と可能性の塊で、私を魅了してやまない、頭の良い脳みそなのだ。

頭の良い彼らは、じっくり人の話を聞く。相手が何を言おうとしているのか、テーマは、要点は、バックグラウンドは、何を思ってそんなことを言うのか。途中で遮ったりしないし、早とちりもしない。時折、それってこういうこと? と聞き返してきて、そうだと言えば一つ頷いて続きを促す。違うと言えば追加の説明を求める。私は思う。私の一言一言が、その脳みそのなかで一つずつ繋がって、理解されようとしているのだと。

そしてまた一瞬の後、彼らは自分の見解を述べる。話をしながら、私の中でそれらが一つずつ繋がって、理解されるのを待っている。

頭の良い彼らは、素直に「自分はそうは思わない」と言う。でも「それは間違っている」とは言わない。理解はしても賛成はしない。そういう領域を知っている。全ての脳みそが、それぞれ違う味なのを知っている。違って良いということも知っている。

心理テストでこんな質問を見かけたことを思い出す。
『自分の子どもには頭の良い人であるよりも、優しい人であってほしいか』どうか。

頭の良い彼らは、優しい人たちだ。もっとドライに表現するなら、彼らは不用意に他人を不快にさせないことの利点を心得ている。そういう意味では、当たり障りがないだけで、優しいわけではないのかもしれない。でも、誰かに攻撃的になることの利点と不利点を検討した上で、大抵は優しさを表明する人間であることを選択しているのではないかと思う。

頭の良い彼らが、すなわちお勉強ができるかどうかは微妙だ。逆に、お勉強の出来る人たちが、すなわち頭の良い彼らであるかどうかも微妙だ。ただ、私の知る彼らはこぞって記憶力オバケだ。一言一句違えずに誰かの何かを再現するとかではない。自分の脳みそにしまわれている何かを思い出そうとする力、それが化け物級なのだ。

「ちょっと待ってね、思い出すから」
私は彼らのそんな一言が好きだったりする。それで結局、「ごめん思い出せない」なんてことになって。再度インプットすると「あー、そうだったそうだった」とはにかむ。忘れていたわけではない。

私の知っている頭の良い彼らは、唐突に青春を取り戻したいとか言い出したりする。ボッチで内気でコミュ症で、そういうキラキラしたことはしてこなかったとか、そもそも嫌いだとか。

私の知っている頭の良い彼らは、「なんでスウェーデン人は黒しか着ないんだろう」という問いに、「黒の方が暖かいからじゃない?」と即答したりする。

私の知っている頭の良い彼らは、私の長ーい愚痴に、懇切丁寧なのに何故かどこかが若干ずれているような、絶妙にAIじみた回答を寄越したりする。

私の知っている頭の良い彼らは、部屋がとんでもなく散らかっていたりする。ふと引き出しを開けて、「あぁ! これはここにあったのか!」なんて。

頭の良い彼らは、じっと何かを考えていて。何を考えているのか聞けば、もちろん答えてくれるけど、どうあがいても、明かされたそれは彼らの思考のほんの一部でしかなくて。彼ら自身のほんの一片でしかなくて。

やっぱり私は思うのだ。

お前の脳みそちょっと食わせろ、と。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?