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Africa Uniteに関するあれこれ

パワフルなWake Up and Liveでリスナーを目覚めさせたボブはこのセカンド・ナンバーAfrica UniteからいよいよSurvival(生存、生き残ること)と名付けたアルバムの本題に入っていきます。


汎アフリカ主義

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「ひとつのアフリカ」という高い理想を歌ったこの曲の底には、汎アフリカ主義(Pan-Africanism)と呼ばれるアフリカ大陸の住人、および全世界に散らばったアフリカ系の民(African diaspora)の解放と連帯を訴える思想が流れています。

汎アフリカ主義は1960年代初頭アフリカ諸国の独立を促し、アフリカ連合(African Union)の前身となったアフリカ統一機構(Organization of African Unity)を生み出す精神的支柱になったんですが、1970年代後半には熱を失い、空虚な理想になりかけていました。

そんな時代の空気に逆らうように、そして白人が支配していた南アフリカの人種隔離政策アパルトヘイト(Apartheid)に断固Noと言うかのように発表されたのがこの優しいメロディに高い理想を乗せたメッセージソングです。

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アルバム・ジャケット

Africa Uniteというタイトル、そして汎アフリカ主義を前面に押し出した歌詞がウエイラーズのアートディレクター、ネヴィル・ギャリック(Neville Gallick)にインスピレーションを与え、見る者すべてに強烈な印象を与えるこの色彩豊かなジャケットを生み出しました。

ジャケットに描かれたのは49の国および政治団体の旗です。

どこの旗なのか、興味がある人もきっと多いと思うので、この機会に列記しておきます(順序は各段左から右へ)。

最上段
ケニア、アンゴラ、コートジボワール、エチオピア帝国、チャド、エジプト、ガーナ

二段目
セネガル、シエラレオネ、カメルーン、チュニジア、ニジェール、ナイジェリア、ギニア

三段目
ガンビア、ソマリア、アッパーヴォルタ(現ブルキナファソ)、ザイール(現コンゴ民主共和国)、ギニアビサウ、リベリア、スワジランド(現エスワティニ)

四段目
マダガスカル、トーゴ、モザンビーク、中央アフリカ共和国、ジンバブエ(ZAPU)、セーシェル、ザンビア

五段目
レソト、ウガンダ、アルジェリア、マリ、スーダン、ボツワナ、モロッコ

六段目
コンゴ人民共和国(現コンゴ共和国)、タンザニア、ブルンジ、ジンバブエ(ZANU)、モーリシャス、モーリタニア、ガボン

七段目
ベニン、赤道ギニア、パプアニューギニア、マラウイ、サントメ・プリンシペ、ジブチ、ルワンダ

ちなみに最上段と二段目の間に置かれたモノクロの絵は奴隷船ブルックス(slave ship Brooks)です。

1788年に描かれたこの有名な絵は奴隷船の図解です。

オリジナルはこれ

捕えられ自由を奪われたアフリカ人は手足を拘束され船内にぎっしりと詰め込まれ「船荷」として大西洋を越えてカリブの島々や新大陸へと運ばれていきました。その姿を生々しく伝えています。

話をジャケットに戻します。

ギャリックによると、当時ジャマイカには国旗の資料がなく、そのためジャケット作りのためだけにNYに飛んで国連本部で目にしたアフリカ各国の国旗を自分でスケッチしてそれを基にしてデザインを作ったそうです。

描かれた旗には間違いや注意を要する点がいくつかあるので書いておきます。

タンザニアの国旗は青と緑が逆の位置にあるのが正しいです。

これが正しいデザイン

ジンバブエは1979年当時まだ白人によるアパルトヘイト政権下にあってローデシア共和国(Republic of Rhodesia)でした。

ローデシア時代に使われていた国旗

ZAPUZANUはどちらも白人政権下にあったローデシア(現在のジンバブエ)を多数派である黒人の手に取り戻そうと戦っていた左翼政党です。

パプアニューギニアはアフリカ大陸とは関係ありません。アフリカ系の人たちとは系統が異なる民族が多数派を占める国です。

中央にライオンがいるエチオピア国旗は革命前、エチオピア帝国(Ethiopian Empire)時代に使われていたものです。

現在のエチオピア国旗

アフリカをテーマに

アートワークや旗に関してはこのぐらいにして、Africa Uniteのもうひとつのキーポイントについて書いておきます。

このナンバー以前、ボブの自作曲の舞台はすべてジャマイカか、滞在経験があるアメリカやヨーロッパの都市でした(Rastaman Vibration収録の名曲Warはアフリカを歌った曲ですが、歌詞はエチオピアの皇帝だったハイレ・セラシエ一世(Haile Selassie I)の演説からの借用でボブの作ではありません)。

Selassie at the UN General Assembly in New York in 1963

Africa Uniteこそボブが作った最初のアフリカに関するナンバーです。

きっかけとなったのは1978年に実現したエチオピア旅行でした。

天国であり故郷

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ハイレ・セラシエを当初は天から地上に戻ってきた救世主イエスキリスト、のちに創造主である神の栄光を体現した「神に近い聖人」として心から愛していたボブにとってエチオピアは特別な場所でした。

聖書の言葉を信じるボブたちラスタにとってそこはイエスが説いた天国(Zion)でした。

同時にそこは黒人解放運動指導者でラスタにとっての預言者マーカス・ガーヴェイ(Marcus Garvey)が唱えた奴隷の子孫たちが帰るべき故郷(home)でした。

Marcus Garvey

水先案内人

ボブをエチオピアへ向かわせたのはアラン・スキル・コール(Allan Skill Cole)です。元プロサッカー選手でジャマイカ人として初めてブラジルのサッカークラブでプレイした伝説的名選手です。

選手時代のスキル・コール

サッカーが縁でボブと知り合い、ウエイラーズのツアー・マネージャーをやったこともあるスキル・コールはボブをラスタ集団イスラエルの12部族(Twelve Tribes of Israel)に勧誘した人物でもあります。

ツアー・マネージャーを辞めて、エチオピアのサッカークラブに招かれ監督として首都アディスアベバに住んでいたこの大親友を訪ねてボブは1978年暮れにエチオピアに旅しています。

20代前半にラスタとなって以来ずっとアフリカを心に置いていたボブにとって初めてのアフリカ訪問でした。

謎に包まれた滞在

滞在はほんの数日間でした。そのほとんどの時間をシャシャマニ(Shashamane)という名のラスタ入植地で過ごしています。

シャシャマニは差別から逃れてアフリカへ帰還したいと熱望する奴隷の子孫のためにハイレ・セラシエが1948年にエチオピアの南部に確保した広さ500エーカー(約2平方キロメートル)の入植地です。1978年当時すでにかなりの数のイスラエルの12部族メンバーがジャマイカからここに移り住んでいました。

こんなところ
生活スタイルはジャマイカとほぼ同じ

この場所でボブは帰還組のラスタ仲間と交流し、共にサッカーボールを追いかけて楽しい時間を過ごしたと言われています。

それ以外にボブがエチオピアで何をして何を見て何を感じたのか、信頼できる情報はありません。

ネットで拾った一枚。温泉に行った証拠写真だそう。真偽不明です。

あくまで理想を追求

滞在中のボブの行動は謎ですが、おそらく周囲の人たちと言葉も文化もまったく異なるラスタ・コミュニティの孤立した姿、そして一般のエチオピア人とラスタの間に横たわる大きなカルチャーギャップぐらいは肌で感じ取ったのではと思います。

エチオピア正教会にとってセラシエはただの一信徒

Africa Uniteはそんな現実を目の当たりにしたボブがそれでもなお「ひとつになろう」と理想の実現を呼びかけた曲です。

簡単ではない高い理想。どんなに道が険しくてもひるまずにそんな目標に挑戦する。それが聖書の神の教えを信じ実践しようとする信仰者のあり方です。

愛する神をJahと呼んだボブもそんなひとりでした。

以上、今回のあれこれは汎アフリカ主義、国旗が並ぶアルバムジャケット、ラスタにとってのアフリカ、エチオピア旅行、エチオピアのラスタコミュニティ、どんなに道が険しくても理想を追求するボブの姿勢についてでした。それじゃまた~

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