本日の精神障害者日記(愚痴)

死ぬことに勇気など必要ない。
死ぬための苦痛に耐えようとするから「勇気」なんてものが必要になるだけのこと。

つまりは、いつだって無気力な私は死ぬことさえもめんどうくさく、生きることも面倒くさいだけのことなのだ。

他人頼り。いつだって私は他人頼りだ。
だって望みもないのに生まれて、望みがないまま育ち、望みがないまま死ぬのだ。

いや、望みはある。それでさえも自分のためという自覚はない。
だって、人は人の言葉を使わずに生きれない。だったら自分のためとは、「自分しか持ちえないもの」などないだろう。

言葉は「人が持ちうる唯一のもの」ではあるが、「個人が持ちうる唯一のもの」ではないのだ。
同様に感情も理論も人が唯一世界から干渉できない力であることだけで、個人が生み出せるものなどない。


まぁ、簡単に言えば、私は「人に望む願い」こそあれど、「自分に望む願い」などありはしないのだ。
これを他人頼りと言わずしてなんと言う。

だからこそ、「生きて欲しい」という願いの元尽くす人に何の感情も何の感謝もしていない。ある程度生きてやるかと思うけど、死にたくなる要素の方が多い。(訳:損得勘定が合わない)

そもそも親が言った「死体処理面倒」「世間体」「自殺推薦者」とか、そんなわがままだから生きてあげているのに、その癖気分悪くなったら私に当たり強くなるとかわがままも度が過ぎると殺意が湧いてくる。
けれど私は人の自由を守るつもりではあるので殺意など無かったことにして親の庇護にすがることにしている。

人生で一度も「死にたくない」「生きたい」なんて言ってなんていないのに勝手にご飯を作って勝手に世話をする。
大人になった私なんて家の外に出して出禁にすればいいだけの話なのに、それも世間体云々で出来ないなんて相当「優しい」んだと思う。

私は嫌いだ。
私を生かそうとする人も、私を殺そうとする人も。
だって、それは自分の境遇から私に望んだことなのだろう?私にその環境を一緒に背負わせようとしてるだけじゃないか。
嫌いで傷つく人は単なる未熟者だろう。

そもそも、ネットに何書くかわからんとか、
そんなに醜態晒したくないならそもそもやるなと言う話だ。それで傷つくというのは自分の行動への責任が足らない。
あぁいや、ある意味責任を負っているか。嫌な気持ちになるという責任を。
でもそれの責任は「言った人」の責任ではなく、「自分の行動」への責任だ。

実際。私が傷ついて仕事もせず閉じ籠っているのは、「相手に言い返せるほどの自我がないこと」を悔やんでいるだけに過ぎないのだ。
人と人とのやり取りは損得勘定によって成り立つ。
あるいは、感情を揺さぶりどれだけ自分の都合のいいように解釈をさせるか。
どちらも通用しなかったけど。

ま、結局は、
私が変わるしかこの世界に馴染む方法は無いのだ。

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