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【エッセイ】 好きと仕事と体力と。


友達から「やっと本が好きだという気持ちに正直になれた」というメッセージが届いた。彼女は幼い頃から読書家で、夢であった出版社に入社したはずなのに、ここ数年、仕事のために本を読むことが苦痛なんだと悩んでいた。それが、この度めでたく、長年の悩みから脱することができたということだ。

これまでウチは、特にアドバイスもせずに「出版社に入れるなんて読書エリートだよお。羨ましいなあ」と無神経に言い続けてきた。だって、それが素直な気持ちだったし、助言なんて彼女には必要ないと思っていたから。そんな話をすると、彼女は決まって「それはそうなんだけどねえ」と口をタコのように突き出し、もんもんとした表情を浮かべていた。それが、このいきなりのメッセージ。

キッカケはなんだったんだろうか・・・。そんなことを考えながら、「おめでとー! よかったねー!」と彼女に返信すると、すぐにまたメッセージが届いた。

「体力がついたのかもしれない!」

その文字を読んで、ウチは「これが世界の真理なのかもしれないなあ」というスケールの大きなことを思ってしまった。

彼女のいう「体力」という言葉には、いろいろな意味が含まれていると思った。それは「継続する」ということでもあるし、「量をこなす」ということでもあると思う。それらは、令和の時代には合わないのかもしれないけど、努力や根性、辛抱や忍耐の先にあるモノなのかもしれないね!

「大人になることは、サッカーの試合に途中から参加するようなものだ」と誰が言っていた。大人になり、社会に混じるということは、なんの経験もないのに、フィールドに送り込まれてしまうのと同じことなんだと。

新人だろうが、誰も手加減なんてしてくれず、いきなり猛者たちに囲まれる。闘い方を教えられても理解ができず、ただ見て真似をしながらついていくしか方法はない。しかし、それだけで上手くいくはずがなく、ボールが自分のところへ来たとしても、猛烈なタックルにあい、倒され、傷を負い、途中で疲れてへばってしまう。審判はホイッスルを吹かない。それでも試合は進んでいってしまう。

でも、そんな世界でも、めげずに少しずつ経験を重ねていくと、次第に戦局が見えてきたり、力の抜き方が分かってきたり、猛者たちもパスを出してくれるようになる。そうして、気付けば自分がレギュラーメンバーになっている。

それが大人の社会なんだとか。

なんとも恐ろしい話だけど、友達は、確かに、そんな試合の中にいた。そして、ようやく、猛者たちと渡り合える「体力」を手に入れたのだと思った。結局、体力だったんだねえ。

ウチだって本は好きだけど、出版業界で働く彼女の好きとは次元が違う。ウチは、キーパーがいないゴールに向かってシュートを打って、「楽しい楽しい」と能天気にはしゃいでるようなものだもの。

彼女は、闘い、傷つき、立ち上がり、とうとう試合そのものを楽しめる世界に達したんだと思う。本当にすごいことだし、おめでたいことだと思った。

でも、ちょっとズルして考えてみたら、「体力」こそが仕事になるのかもしれないね。いきなり試合に放り込まれても、すぐに弾き出されないような、体力を持っているものはなにか・・・。

もちろん好きな気持ちは、世界に飛び込むキッカケにはなるかもしれないけど、試合となったら、それだけでは敵わない。体力がいる。好きとか嫌いは関係なくなる時がくる。友達は、苦痛だと散々こぼしていたが、今、本が好きだと宣言していた。

好きとか嫌いは、あとからやってくるものなのかもしれないね。

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