【エッセイ】 老い風を吹かす。
「老い」について考えるとき、つい自分の体力の衰えとか、見た目の劣化ばかりに気を取られてしまう。
確かに自分を襲う「老い」に対する恐怖はある。明らかに若い頃より疲れるようになったし、準備運動をしなければケガをするようになった。脂肪も落ちなくなってきているし、肌のくすみも気になってしまう。いつまでも若いままではいられない。
でも、もっともっとリアルな「老い」は、親に訪れるんだと思う。
自分の精神年齢は低学年の頃から変わっていないと思うように、親に対する印象も変わっていない。特に幼少期に抱いていた印象は強烈で、あの頃のイメージがフィルターとなって、今の親の姿を歪めてしまう。
今、親と手を繋ぐことがあるだろうか。
あの頃は当たり前のように繋いでいたけど、すっかり親に触れることがなくなった。その手には、自分を育ててくれた苦労のシワが刻まれている。
その手で、なんどウチのご飯を作ってくれただろう。ウチの部屋を掃除してくれて、ウチの看病をしてくれた。ウチが人生を謳歌できるように、一番、近くで見守り、手を振ってくれていた。
「老い」は、ウチよりも先に親に訪れる。
そして、もう、親は老いていた。
でも、不思議なもので、ウチが親の老化を意識し始めたころから、親は「老人扱いするな!」と言うようになった。たぶん、ウチの配慮が欠けていたんだと思う。
人は「認識」した途端に、「認識」した方向へ進むらしい。
風邪っぽいと感じている時、体温計を手に取らなければ、そのまま活動できていたのに、熱を測って自分の高熱を「認識」した途端に、身体がダルくなることがある。
傷の痛みとかもそうらしい。血が出ていて、痛そうに見えるから痛みが襲ってくるんだとか。つまり「認識」するから、そちらへ自分が進んでいく。「老い」も似たようなものなのかもしれない。
ウチは親の「老い」を認識したことで、自然と親を「老い」の方向へと追い込んでいたのかもしれない。これはイカンイカンと反省した。
いまさら「老い」を否定することはできないが、忘れることはできるし、気づかないことはできる。それは自分のことにも言えるはず。
「老い」がきているから、若者らしく振る舞ってはいけないのか? ベテランらしく振る舞うのか? 老人らしく振る舞わなければいけないのか? 大人しく隠居生活を送ればいいのか? そうじゃないと思う。
「老い」を「老い風」に変える。
いや、「追い風」を吹かせるのだ!
そして、楽しく生きるのだ!
ウチの親を見ていると、そんな気概を感じてくる。
「老い」に「追い込む」のではなくて、「老い」を「追い風」に変える。
ただのダジャレになってしまったけど、そんな社会になればいいな。
そう「認識」するところから、人生は変化すると思うんだ!
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