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「いい子」をやめる。


「あんたってさ、いつも『いい子』であろうとするよね」


 友達は罠でも仕掛けるときみたいに、ニヤリとしながら言った。顔はほんのりと桜色に染まっている。耳の後ろから髪の毛の束が顔にかかり、やけに色っぽかった。

 友達の前に置かれたワインボトルは、半分以上なくなっていた。ウチは何杯飲んだんだろうか。自分の頬に手の甲をあて、体温を確認する。顔は火照っていた。耳の奥のほうで、ゴーッと飛行機が通過したような音がした。きっとウェイターからしてみたら、友達よりもウチのほうが酔っ払って見えると思う。

 ウチは自然と前のめりになり、テーブルに肘をついた。この人は、どうしてウチが「いい子」であろうとしていたのを知っているのだろうか。自分でも、ずっと見て見ぬフリをしていたことなのに。自分にしか分からないと思っていたことなのに。

 ウチは、自分の問題を他人の口から聞くという奇妙な状況のなか、不思議な高揚感に満たされていた。

「あんたさ、自分と関係ない人にもニコニコと挨拶して、無理にコミュニケーション取ったりするでしょう?」

 はい。その通りです。幼少期から、ウチは重度の人見知りだと言われてきてました。でも、ビジネス書を読んだり、いろいろな人と出会うなかで、「このままではいけない!」と思い直すようになったんです。それで矯正ギプスでもするみたいに、だれかれ構わず話しかけるようにしたり、沈黙を避けるようになりました。おっしゃる通り、ウチは無理にコミュニケーションをとるようになったんです。

 とは一言も言わず、頭をぶん回すように上下に振った。

「もちろん、それが悪いことではないし、その努力も分かるけど、あんたって、本来、そんな人間じゃないんじゃない?」

 友達は言葉を選んでいるような素振りで、大胆な意見を言う。


「興味のない人と喋ってるときのあんた、目が濁ってるのよ。腐ったタマゴみたいに。あんな目をされたら、相手にとっても失礼だから」


 凄い表現だと思った。そして、悪口を言われている気がしてならなかった。でも、友達にふざけている様子は見られない。だから、ウチはおかしくなって、大きな口を開けて笑ってしまった。自分のことを言われているはずなのに、別の人間の話をしているような気がしてしまう。

「無理にコミュニケーションなんて取らなくていいのよ。『いい子』であろうと思わなくていい。そんなこと考えなくたって、あたしはあんたの異常なまでの集中力とか爆発力を分かってるから」

 ウチ、笑いすぎて泣いてたんだろうか。気付けば、友達は母親のような口調になっていた。


「どうして『いい子』であろうとするの?」


 だって、いい子じゃなかったら嫌われちゃうかもしれないじゃない。トップの人間は、コミュニケーション能力が高いとか、人間力に長けているって本にも書いてあったし。だからウチも、そんな人間になろうと努力してたつもりなの。

 思ったことを口に出すべきか迷って、ウチは唸る。

「コミュニケーションを取ろうとすることは悪いことじゃない。でもね、最低限でいいんだよ。無理にやることはない。ちょっと言い方悪いけど、媚びる必要なんてないんだよ。あんたは、もっと自由に生きた方がいい。次の段階にいくためにも、あんたは『いい子』であることをやめたほうがいい」

 心臓を握られたような気がした。でも、苦しいわけじゃない。命を吹き込むような、力を与えるような、そんな温もりがあった。

 ウチは声を出して泣き出したかった。でも、そうしなかったのは、お店の空気や周りのお客さんの目を気にしてのこと。いつもどこかで現実的な自分がすぐ側にいて、行動にブレーキを踏ませて考えさせる。

 ここでも「いい子」であろうとしている自分がいることに、変なため息が出てしまった。

「ウチ、『いい子』であるの、やめるわ!」

 せめて言葉にしないと。そう思って空気を吐き出してみたけど、その行動すらも「いい子」であろうとしているような気がしてならない。目が回るような気分になった。

 友達はニヤリと笑って、ワイングラスを傾けた。すかさずウチはそのグラスにボトルを傾ける。これまた「いい子」が飛び出してくる。


「ねえ、どうして、そんなにウチのことわかるんですか?」

 ついには敬語になっていた。酔いまで回るようだった。

「そりゃ、あんたの才能に惚れたからだよ」


 もう、考えることをやめた。こんな友達を持てたことが幸せだった。それだけで十分だった。


「ありがとう!」

 そう言って、ウチはグラスの中を空にした。

 明日も仕事だってのに。まったく、とんだ悪い子になっちゃったぜ。

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