雨季はウキウキ

 雨の日は大学に行かない。だから、六月は大変だ。けれどもそのおかげで、試験の成績は人よりも良い、と思う。
 大学に行きたくない、というよりは外に出たくないというのが正しい。雨の日の外出なんて、とてもまともな人間のする事とは思えない。考えるだけでおぞましい。
 あんた、そんなんじゃ一生社会に馴染めないよ――そう私を評したのは、友人のミキちゃん。彼女とは高校からの付き合いだ。三年生の時からこの『雨の日サボタージュ』を敢行した私にそう言った。余計なお世話。
 けれども、外に出ないのは退屈だ。退屈なのは嫌いだ。雨の日も嫌いだ。これは、ジレンマって奴なんじゃないかと私は思う。いや、きっとそうだ。
 キャッチ=22。(注釈:本当は二重ハイフンにしたかったのだけど、面倒だったから等号にしておく。書かなければその違いは気付かれなかったかも知れないけれど)
 そんな訳で、雨と退屈の苛烈な板挟みに耐えかねた私が来るのがこの喫茶店だ。私の下宿は三階で、一階にあるのがこの『サンク』だ。フランス語で5、という意味らしい。ちなみに私はロシア語選択だ。理由は特にないけれど。きっとこの店の名前にも理由なんて無いのに違いない。とにかく、部屋から雨に濡れることなく入店できるサンクは私にとっては核シェルターも同然だ。
 閑話休題。
 コーヒーは偉大な発明だと思う。ドストエフスキーのような雨の日の午前は、この珍妙な黒い液体のおかげでいくらかはマシになる。と、ドストエフスキーを読んだ事の無い私は、彼女を待つ傍らに本日のおすすめ、ブルーマウンテンのカップに口をつけながら思ったりなどした。
 彼女とは一体誰なのか? 実のところ、私にもよく分からない。では今からは、その謎を少しずつ解いていく事にしよう。
 さてコーヒーの偉大さは既述の通りであるが、同じ偉大さを持った存在を私は知っている。それが彼女だ。
 先程から彼女、彼女と言っているが、本当に彼女が女性なのか私は知らない。ただの推測だ。しかし、彼女の流れるような黒い髪と透き通るような白い肌は、もしも彼女が男性であっても"彼女"と呼ぶに相応しい、と思わせる。手垢のついた表現というのは出来れば避けたいが、その方がより彼女の美しさを表せると思ったので敢えて使った。読者諸君においては、私がそのような手垢のついた表現を好む下衆であると勘違いなされる事など無いように。ともあれ彼女の美しさは賛美に値するという事だ。
 飲み終えたコーヒーカップが、いつの間にかマスターの手によって下げられている。彼は絶対に人と目を合わせず、また必ず人の目を避けて行動する。やむを得ない場合以外に口を開く事はなく、大抵は何らかのハンドサインで意思疎通を図ろうとする。なかなか面白い人物だ。一体いかなる理由で彼のような人間が喫茶店を開店する事になったのか。私が目下 解明したいと思っている謎である。
 謎と言えば。そう、彼女だ。私は時計を確認する。もうじき彼女がやってくる時間だ。今日は、どんな傘を差しているだろう? どんな服を着ているだろう? 髪型は? 靴は?
 彼女がやってきた。遠目でも分かる。黒のカーディガンに、水色の傘を差している。今日も彼女は綺麗で、ポケットに片手を突っ込んでいる。今日は少しだけ肌寒い。濡れた道で滑ってこけてしまわないか少しだけ心配だったが、彼女が転ぶところは見たくない訳でもなかった。
 彼女はこちらに向かって歩き続ける。彼女はズックを履いていた。黄色いズックだ。はっきり言うとダサい。精一杯ぼかして言えばお茶目。
 彼女はどんどん近づいてくる。彼女が眼鏡をかけているのが分かった。伊達だろうか。あるいは普段はコンタクトレンズを着けているのかも。
 いよいよ、私が座っているちょうど横を彼女は通り過ぎる。私は彼女に出来るだけ悟られないよう、その瞬間だけは視線を伏せる事にしている。視界の端で、彼女のスカートがひらりと舞った。そしてそれを追いかけるように、私の視線はまた窓から見える彼女の後ろ姿に向けられる。
 そして、そのまま彼女がいつも通りに郵便局の角を右折するまで彼女のポニーテールが揺れるのを見つめていた。
 これが、私の知りえる彼女の全てである。
 彼女は雨の日にだけやってくる。まるで私を憂鬱から救うように。
 また、彼女は帰りには違う道を通るらしく、同じ日に二回彼女を目撃できた事は無い。いくつかの実験を経て私が得た結論である。
 なぜ彼女は雨の日にだけこの道を通るのか。彼女は一体何者なのか。その答えを私は知らない。
 知りたくない、と言えば嘘になるだろう。
 しかし、私にとっては、今のままで十分すぎる程なのだ。
 一杯のコーヒーと、彼女。
 それが、雨の日の全てだ。

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